日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミンガス」の意味・わかりやすい解説
ミンガス
みんがす
Charles Mingus
(1922―1979)
アメリカのジャズ・ベース奏者、作曲家。アリゾナ州に生まれ、幼児期に家族でロサンゼルスのワッツ地区に移住。6歳でトロンボーンを、続いてチェロを習いはじめる。少年時代はスクール・バンド、そしてロサンゼルス・ジュニア・フィルハーモニーの一員として演奏活動を行う。この時期、ピアノ奏者、ビッグ・バンド・リーダーであるデューク・エリントンのコンサートを聴いて感動する。高校時代、学友で後にジャズ・サックス、クラリネット奏者となるバディ・コレットBuddy Collette(1921―2010)の勧めによってベースに転向し、ベース奏者レッド・カレンダーRed Callender(1916―1992)から技術を習得、またピアノと音楽理論も学習する。
1940年プロ・ミュージシャンとしてスタートし、1941年から1943年にかけてトランペット奏者ルイ・アームストロングのバンドなどで修業。1945年初レコーディング、1946年初リーダー・セッションを録音する。同年より1948年にかけてはビブラホーン奏者ライオネル・ハンプトンの楽団に参加、ミンガスの作・編曲が採用される。1950年ビブラホーン奏者レッド・ノーボRed Norvo(1908―1999)のサイドマンとなり1951年まで在籍する。その後ニューヨークに移り住む。しかしミュージシャンとしての仕事がなく一時期郵便局員となるが、アルト・サックス奏者チャーリー・パーカーに励まされジャズ・シーンに復帰、パーカー、トランペット奏者マイルス・デービスらと共演。1952年自己レーベル「デビュー」を友人のドラム奏者マックス・ローチの助けを借りて設立し、ここを拠点としてさまざまなミュージシャンたちと「ジャズ・ワークショップ」の活動を行う。
1953年、エリントン楽団で短期間演奏、パーカーのアルバム『ジャズ・アット・マッセイ・ホール』のサイドマンを務める。同年、後にマイルスのアルバム・プロデューサーとして名をはせるテナー・サックス奏者テオ・マセロTeo Macero(1925―2008)、ビブラホーン奏者テディ・チャールズTeddy Charles(1928―2012)ら白人ミュージシャンたちと作曲活動に力点を置いた「ジャズ・コンポーザーズ・ワークショップ」を組織、この時期ヨーロッパ近代音楽への傾斜を強める。1956年、新たに編成された「ジャズ・ワークショップ」の成果として、人種差別への怒りを込めたアルバム『直立猿人』を世に問い、大きな反響をよぶ。この作品以降、彼の音楽は黒人意識を前面に押し出したプロテスト・ミュージックの色彩を強くする。1958年ジョン・カサベテス監督の映画『アメリカの影』の映画音楽を担当。1960年アルト・サックス奏者エリック・ドルフィーがミンガスのグループに参加、ヨーロッパ・ツアーを行う。同年ニューポート・ジャズ・フェスティバルに対する批判を込め、同時期に独自のジャズ・フェスティバルを開催。またアーカンソー州リトル・ロックで起きた人種差別事件に対する非難を込めた「フォーバス知事の寓話」を収録したアルバム『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』を発表。1962年、エリントンとの共演アルバム『マネー・ジャングル』を録音、同年ニューヨーク・タウン・ホールでコンサートを開催。1964年ドルフィーらと再度ヨーロッパ・ツアーを行い、さらにモンタレー・ジャズ・フェスティバルに出演する。また同年、自主レコード『ミンガス・アット・モンタレイ』も制作している。
1960年代後半は体調を崩し一時ジャズ・シーンから遠ざかる。1969年末に復帰し1970年ヨーロッパ・ツアーを行い、1971年オーケストラ作品『レット・マイ・チルドレン・ヒア・ミュージック』を録音、同年『ダウン・ビート』Down Beat誌「名声の殿堂」入りを果たす。1978年大統領ジミー・カーター主催のジャズ・フェスティバルに車椅子で出席、大統領より励ましの言葉を受ける。1979年メキシコにて病死。そのほかの代表作に『道化師』『メキシコの想い出』(ともに1957)、『クンビア&ジャズ・フュージョン』(1977)がある。彼は音楽によってアメリカにおける人種問題にスポットを当て、黒人ジャズマンの政治的意識を高めた。バンド・リーダーとしても、自らのサウンド・カラーを適切に表現する高度の技量を身につけた代表的ジャズ・ベーシストである。
[後藤雅洋]