ムラト(2世)
むらと
Murat Ⅱ
(1404―1451)
ムラト(1世)
むらと
Murat Ⅰ
(1326―1389)
オスマン帝国の第3代スルタン(在位1362~89)。オスマン帝国の始祖オスマンの孫。ブルサの知事を務めたのち、即位。即位後、バルカン半島に進撃し、トラキアの大部分を占拠した。1363年にアドリアノープル(エディルネ)を征服すると、首都をブルサからここに移した。アナトリアではゲルミヤン侯国、カラマン侯国を服従させた。20年間にわたってバルカン各地に征服活動を続けたが、89年のコソボの戦いに勝利を収めたのち、セルビアの貴族に刺殺された。これらの戦いによりオスマン帝国はバルカン支配の基礎を築いた。またデウシルメ制の実施、イェニ・チェリ軍団の創設など帝国の基礎を固めた。
[永田真知子]
ムラト(4世)
むらと
Murat Ⅳ
(1612―1640)
オスマン帝国の第17代スルタン(在位1623~40)。伯父の第15代スルタン、ムスタファ1世(在位1617~18、1622~23)の死後、11歳で即位。国政は最初、母のキョセムと大宰相にゆだねられた。21歳のとき彼らの手から政権を奪還し、財政の再建、軍隊の改革、アナトリアの民衆暴動鎮定など政治力を発揮した。1635年以後、イラン戦役にたびたび親征し、バグダードを再征服した。オスマン帝国中興の祖といわれる。
[永田真知子]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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ムラト[1世]【ムラト】
オスマン帝国第3代スルタン。1359年即位。トラキアに進出,エディルネを占領し,プルサからエディルネに遷都。1382年―1387年にニーシ,ソフィア,サロニカを奪い,コソボの戦でセルビアに勝利したが陣中で暗殺された。
→関連項目バヤジト[1世]
ムラト[2世]【ムラト】
オスマン帝国第6代スルタン。1421年即位。ヨーロッパへの攻撃を再開し,ハンガリーと戦い,1444年バルナで,1449年コソボで勝利。ビザンティン帝国にも干渉を加えた。
→関連項目メフメト[2世]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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ムラト(1世)
Murat Ⅰ
1325〜89
オスマン帝国第3代スルタン(在位1359〜89)
1362年アドリアノープル(エディルネ)を攻略し,首都を小アジアのブルサからここに移す。1389年コソヴォの戦いでセルビア−ブルガリア連合軍に大勝し,トルコのバルカン支配を決定的にした。
ムラト(2世)
Murat Ⅱ
1401〜51
オスマン帝国第6代スルタン(在位1421〜51)
ハンガリーに敗れ,セルビア・ワラキアを失ったが,勢力を回復し,1444年ヴァルナの戦いでハンガリー−キリスト教徒連合軍を破り,バルカンの領土を守った。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のムラトの言及
【オスマン帝国】より
…16世紀後半,キプロス島の征服(1571)など若干の領土拡張がみられたが,[レパントの海戦](1571)に象徴されるように,ハプスブルク王家をはじめとするヨーロッパ諸国の反撃([オーストリア・トルコ戦争])の前に,帝国の領土拡張はようやく停滞した。
[政治,行政]
建国当初,ガージーもしくはベイbeyとよばれた支配者は,第3代ムラト1世(在位1362‐89)以後スルタンを名のったが,パーディシャーpādişāh(守護王の意),ハーカーンhākān(大ハーンの意)のごとき,ペルシア的・トルコ的称号も使われた。王位継承の規律はなく,争いが絶えなかったため,[メフメト2世](在位1444‐46,1451‐81)は,スルタンの即位後の〈兄弟殺し〉を法制化した。…
※「ムラト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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