日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムラト」の意味・わかりやすい解説
ムラト(2世)
むらと
Murat Ⅱ
(1404―1451)
オスマン帝国の第6代スルタン(在位1421~44、46~51)。即位後、スルタン僭称(せんしょう)者ムスタファを屈服させ、彼を保護したビザンティン皇帝への報復としてコンスタンティノープルを包囲したが、ハンガリー王フニャディの進撃により撤退。カラマン侯国を制圧して中部アナトリアを併合した。バルカンでは23年間戦い続けたハンガリーと休戦協定を結び、14歳の息子メフメト2世に王位を譲った。しかし、ふたたびハンガリー軍が侵入したので、軍を指揮してバルナの戦いに勝利を収めた。1445年のイェニ・チェリの反乱により46年復位。アルバニアのスカンダル・ベグ、ハンガリー軍との戦いを続け勝利した。
[永田真知子]
ムラト(1世)
むらと
Murat Ⅰ
(1326―1389)
オスマン帝国の第3代スルタン(在位1362~89)。オスマン帝国の始祖オスマンの孫。ブルサの知事を務めたのち、即位。即位後、バルカン半島に進撃し、トラキアの大部分を占拠した。1363年にアドリアノープル(エディルネ)を征服すると、首都をブルサからここに移した。アナトリアではゲルミヤン侯国、カラマン侯国を服従させた。20年間にわたってバルカン各地に征服活動を続けたが、89年のコソボの戦いに勝利を収めたのち、セルビアの貴族に刺殺された。これらの戦いによりオスマン帝国はバルカン支配の基礎を築いた。またデウシルメ制の実施、イェニ・チェリ軍団の創設など帝国の基礎を固めた。
[永田真知子]
ムラト(4世)
むらと
Murat Ⅳ
(1612―1640)
オスマン帝国の第17代スルタン(在位1623~40)。伯父の第15代スルタン、ムスタファ1世(在位1617~18、1622~23)の死後、11歳で即位。国政は最初、母のキョセムと大宰相にゆだねられた。21歳のとき彼らの手から政権を奪還し、財政の再建、軍隊の改革、アナトリアの民衆暴動鎮定など政治力を発揮した。1635年以後、イラン戦役にたびたび親征し、バグダードを再征服した。オスマン帝国中興の祖といわれる。
[永田真知子]