ルーマニア南部の地域名。北は南カルパチ山脈,南はドナウ川によって区切られ,西はカルパチ山脈とドナウ川の交錯する地方,東はドナウ川とそのデルタ地帯である。ただしモルドバとの境界をなす北東部には明確な自然的境界がなく,歴史的にミルコブMilcov川をもってその境としている。面積は約7万6160km2。
ワラキアという名称はおもに外国人によって用いられたもので,現在のルーマニア人はこれをオルト川を境にムンテニアMuntenia地方とオルテニアOltenia地方に分けて呼んでいるが,歴史上はツァーラ・ロムネヤスカTara Româneascǎ(〈ローマ人の国〉の意)と呼ばれてきた。中世このあたりに住んでいたスラブ人が,ダキア・ローマ人の子孫でロマンス語系の言葉を話す人びとをブラフ人Vlah,Valahと呼んだところからブラフ人の国,つまりワラキアという言葉が生まれ,それがビザンティン帝国や西欧へひろまったのである。ブラフ人という言葉はその時代により,(1)原ルーマニア人を指す場合,(2)一般にルーマニア人を指す場合,(3)ワラキア公国の住民を指す場合とに大別される。このブラフ人がスラブ人やマジャール人などに囲まれながら,どのようにして民族的発展をなしとげたかは,長く歴史の謎といわれてきた。
古代にはこの地方は前1世紀に建国されたダキアの領域内にあったが,106-271年にはダキアを滅ぼしたローマ帝国の版図となった。ローマ軍のダキア撤退後この地方は諸民族の移動地点となったが,ダキア人とローマ人の混交によって生まれた原ルーマニア人は8~9世紀までにいわゆるルーマニア語とその民族性とを形成したであろうと推測される。この期間の彼らの状態を伝える文献はきわめて乏しいが,彼らの多くはさまざまな民族の侵入から逃れて山間部へ退き,そこで牧羊と農業を主たる生業とする独自の共同体を維持していた。その後彼らは多方向へ移住したが,15世紀までの諸史料によれば,現ルーマニア領以外にも,ガリツィア,ポーランド南部,シレジア,モラビア,スロバキア,クロアチア,セルビアに彼らの共同体が確認されている。またドナウ川南岸地域にも居住し,第二ブルガリア帝国を建てたアセン王朝にはブラフ人の要素が認められ,事実その国王を〈ブルガリア人とブラフ人の支配者〉と呼んでいるローマ教皇グレゴリウス9世の勅書(1237)もある。このようなブラフ人の共同体はブラフ人の法と呼ばれる慣習法をもち,クネズcnezあるいはジュデツjudecと呼ばれる首長に率いられ,さらに共同体連合の軍事的な首長にはボイェボドvoievodがいた。これらの共同体の多くは15~16世紀に強まる領主制支配の拡延によって特権を失い同化されていったが,ブラフ人自身の国家形成に成功したのがワラキアとモルドバだったのである。なお現在ギリシアと旧ユーゴスラビアに少数民族として存在しているアルーマニア人もブラフ人と共通の起源をもつものとされている。
ワラキアの建国は年代記によれば1290年であるが,史実によって確認される最初の年代は1324年である。年代記によればトランシルバニアの山間部にあったファガラシ国のブラフ人が南下して建国したことになっているが,すでにオルト川左岸地方にいたクネズが勢力を拡大し,その中心をクンプルングからアルジェシュへ移し,バサラブBasarab公(在位1310?-52)のときにハンガリー勢力を排して建国したものと考えられる。なぜ14世紀初めにワラキアの建国が実現されたかについては,当時ワラキアに大小約2000の村があったといわれるほどの人口増加,生活条件の向上,クネズの政治権力の強化が考えられるが,モンゴルの遠征によってクマン王国が滅び,この地が政治的真空地帯と化したこと,またハンガリー王国の内訌によってバサラブ公が勝機をつかんだという,この地方をめぐる国際的状況も無視することはできない。初期ワラキア公国はアルジェシュ,トゥルゴビシュテというように南カルパチ山脈の山麓部に首都を置き領土を拡大していった。公の権力は強化され,国家組織は整備され,官職貴族が生み出されたが,国民の大部分は自由な村落共同体の成員であった。村人は穀物,家畜,蜂蜜,木材などの生産物の一部を共同責任で公に納めるほか,築城などの労働や治安の維持に従事した。公租はまだ重くなく,国家の重要な財源は関税であった。この地方は東西貿易の商業路にあたっていたから,ドナウ川下流の港ではイタリア人,アルメニア人などの外国商人が取引をし,他方トランシルバニア地方にドイツ人植民者によって建設された諸都市(シビウ,ブラショブなど)は中欧への中継都市として栄えていた。東西貿易はオスマン帝国のメフメト2世征服王によるコンスタンティノープル攻略によっても中断されず,ワラキアの公たちは外国商人の特権の制限を再三行って関税による増収をはかった。ワラキアの初期の首都もすべてドナウ川とトランシルバニアのドイツ人諸都市とを結ぶ商業路に位置していた。
建国後まもないワラキア公国にとって新たな脅威として現れたのは,1393年にブルガリアを支配し,さらに勢力を北へ伸ばそうとしていたオスマン帝国の侵攻であった。この時期に公国の独立を守るために戦った公としてミルチャMircea老公(在位1386-1418)とブラド串刺し公(在位1448,56-62,76)がいる。ミルチャ老公はハンガリーと同盟を結んでオスマン帝国軍と戦い,再三これを撃退したが,1415年に独立の維持と引換えに初めてスルタンへの3000ドゥカート(金貨)の貢納を認めた。ハンガリーの名将フニャディの保護を受けたブラド串刺し公もスルタンの率いる軍隊を迎え討ち,ゲリラ戦法を用いてこれを苦しめたが,これらの戦闘でめざましい働きを示したのは公への忠誠心の厚い自由な共同体の農民であった。もっともブラド串刺し公の治世には,すでに大貴族の勢力も強く,村落共同体を自己の支配下に置こうとし,公に対立してオスマン帝国政府にくみした。オスマン帝国の支配は段階的に行われたが,支配が強化されるにつれて貢納金の額が増大し(15世紀中ごろには1万ドゥカート,16世紀末には15万ドゥカート),また公国の自治は協定によって保障されていたにもかかわらず,オスマン帝国政府は公の選挙に干渉して多額の賄賂を要求するのが慣例となった。16世紀後半からは東西貿易の構造が変化し,オスマン帝国が貿易権を独占するようになったため,公国の関税収入は減少した。これらは公国の中央集権化を弱め,逆に聖俗貴族の勢力を増大させ,農奴制をひろめる結果を生んだ。このようにオスマン帝国への従属を強めていくなかで,16世紀末に反旗をひるがえしたのがミハイ勇敢公(在位1593-1601)であった。彼は当時反オスマン帝国の神聖同盟を結成していたオーストリアと組んで1592年にカルガレニの戦でオスマン帝国軍を破り,さらに彼に反対したトランシルバニアとモルドバを討って短期間ながら3公国の統一を実現し,その後のルーマニア人の統一運動に深い影響を与えた。また彼の反オスマン帝国戦争はバルカン諸民族の共鳴を得て,彼の軍隊には多数のバルカン出身のハイドゥクが集まった。しかし国内体制の強化をめざした彼は,生産力の確保のために95年農民の移動の自由を禁じて農奴制をいっそう促進する政策をとった。
ミハイ勇敢公以後のワラキアはますますオスマン帝国への従属を強めていった。オスマン帝国は宗主国として以前同様に毎年の貢納金を課したほか,多量の小麦と家畜を買い上げ,その買上げ価格はトルコ商人によって一方的に決められた。オスマン帝国は穀倉地のクリミアとエジプトを失ってからは首都住民のための食糧供給をますます多くワラキアとモルドバに依存するようになった。ワラキアでは1746年マブロコルダト公によって農奴解放が行われたが,これは法的には農奴に自由を与えながら実際には賦役日数を厳しく規定して,輸出用穀物生産の増大を図るものであった。17世紀からオーストリアとロシアの南進政策が顕著になると,ワラキア公のなかにも両国のいずれかの援助を期待してオスマン帝国からの離脱を画策する者も出たが,みな失敗に終わった。コンスタンティン・ブルンコベヤヌConstantin Brîncoveanu公(在位1688-1714)は文化・教育の保護者として知られ,1702年にはブカレスト郊外にモゴショアヤ宮殿を建て,いわゆるブルンコベヤヌ様式を後世に残したが,ロシアと同盟しようとしたため,ライバルの大貴族カンタクジノによって密告され,イスタンブールへ呼ばれて処刑された。オスマン帝国政府は16年ニコラエ・マブロコルダトをワラキア公に任命したが,これは政府に忠実なギリシア出身のファナリオットという階層から公を起用して支配を強固にするためであった。これ以後1821年までをファナリオットの時代と称するが,公に任命されたいと願うファナリオットは莫大な賄賂をスルタンに贈り,しかも任期中にそれを回収しようとしたため,農民からの収奪は過酷をきわめた。カルパチ山脈やドナウ川を越えて逃亡する農民は後を絶たず,ファナリオット期にワラキアの農民数は半減したとまでいわれた。またこの時期に文化面ではギリシア化,風俗ではトルコ化が進み,ギリシア・アカデミーの創設にみられるようにギリシア語による教育文化は盛んになったが,民族文化の抑圧に対する不満もしだいに高まってきた。
1821年のギリシア人秘密結社エテリアの蜂起はバルカン諸民族の一斉蜂起を呼びかけたが,それに呼応してトゥドル・ブラディミレスクの率いるワラキア農民の蜂起が起こった。ブラディミレスクの農民軍はエテリアの一斉蜂起計画とは異なったワラキア独自の要求を掲げ,ルーマニア民族運動の嚆矢(こうし)となった。エテリア蜂起もブラディミレスクの蜂起もオスマン帝国軍によって鎮圧されたが,これを契機に再びワラキア貴族の間から公が選出されることになった。ワラキアの自治権はさらに29年のアドリアノープル条約によって確保されたが,それが露土戦争の産物であることからもわかるように,オスマン帝国の影響に代わってロシアの影響が強められていった。
30年にはロシアの監督下に〈組織規程〉が起草され,制度の近代化と同時に農民の搾取が強化された。48年のワラキア革命は,48年のヨーロッパ革命(48年革命)が〈大西洋からドナウ川まで〉といわれるように,最辺境におきた革命であった。賦役によって最も過酷な労働を強いられていた農民は6月イスラズで蜂起し,臨時革命政府は農民問題を主要議題に選んだが,9月オスマン帝国軍によって鎮圧された。革命指導者の多くは国外に亡命したが,彼らはモルドバからの亡命者とともに,その政治目標を両公国の統一に向けはじめた。クリミア戦争後の講和条約であるパリ条約によって,ワラキアとモルドバの両公国はスルタンの宗主権を認めながらもロシアの保護権に代わってヨーロッパ列強の権限下に置かれることとなった。協定に従って両公国に臨時議会が召集されたが,そこでは統一の気運が強まり,59年両議会ともクザを新しい公に選出して両公国の統一を実現した。両公国は78年のベルリン会議で国際的な承認を得て独立の王国となる。なお,トランシルバニアを含めたルーマニアの独立・統一の過程については〈ルーマニア〉の項を参照されたい。
→トランシルバニア →モルドバ
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ルーマニア南部、南カルパティア山脈とドナウ川の間に広がる歴史的地域。ルーマニア語名ツァーラ・ロムネアスカŢara Româneascǎ。中世にはワラキア公国を形成した。狭義には西部のオルテニアOltenia、中央および東部のムンテニアMunteniaの2地域で、広義には黒海沿岸部のドブルジアを含めた3地域からなる。オルテニアは小ワラキアともよばれ、ジウ川とオルト川が流れ、平野は砂地に覆われているが、耕地化されている。ムンテニアは大ワラキアともよばれ、ルーマニアの首都ブクレシュティ(ブカレスト)のあるブラシア平野とバラガン平野、ガバヌ・ブルデア平野が広がる。ブラシア平野は広大な森林地帯であったが、現在は肥沃(ひよく)な耕地になっている。バラガン平野は平坦(へいたん)で乾燥したステップ地帯であるが、ヤロミツァ川が流れる。ワラキア地方は穀倉地帯で、全農産物の40%以上を生産すると同時に、現在では油田開発地帯でもある。中心都市(ワラキア公国の首都)は17世紀までトゥルゴビシュテ、以後ブクレシュティ。ほかにクライオーバ、ブライラ、プロイエシュティなどの都市がある。
[佐々田誠之助]
古代ローマの文化を受け入れたダキア人の後裔(こうえい)とされるルーマニア人は、ハンガリー人の保護を受けながら13世紀にドナウ川下流地域からタタール人を駆逐し、この地方に定住した。1330年ごろこの地方のルーマニア人はバサラブ(在位1310?~52)の指導下にハンガリーから独立したワラキア公国を樹立したが、1415年になってオスマン・トルコの宗主権を受け入れた。ミハイ(勇敢王、在位1593~1601)の治世下に国土からトルコ人を追い出し、モルダビアなどのルーマニア人居住地域を統合したが、彼の死後ふたたびトルコの支配下に陥った。19世紀に入るとワラキア公国でもトルコからの独立の気運が高まり、1821年のウラジミレスクの反乱や48年の民族革命の際には、革命派が一時首都ブクレシュティを支配する勢いを示した。1859年にワラキアとモルダビアの両公国は同一人物クーザを大公に選出、61年12月には両公国はブクレシュティを首都とするルーマニアという名の単一公国となった。
[木戸 蓊]
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ルーマニア南部,南カルパティア山脈とドナウ川に挟まれた地域。「ヴラフ人の土地」の意。歴史的にはワラキア公国領。ルーマニアでは「ローマ人の国(Ţara Româneasc&acaron;)」と呼ばれてきた。前1世紀ダキア王国領だったが,106~271年ローマ属州となり,民族移動期を迎える。1330年バサラブがハンガリーを破り,ワラキア公国は独立。1415年以降オスマン帝国の宗主権下に入ったが,ミハイ勇敢公(在位1593~1601)はトランシルヴァニアとモルドヴァの公位も兼ね,短期間3公国を統一。1716~1821年ファナリオティス統治下に置かれ,1821年農民蜂起の失敗ののち,29年からはロシアの保護下に近代的制度改革が進展。1848年の革命失敗ののち統一要求は強まり,59年モルドヴァに続いてクザを公に選出し統一。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ドナウ川は南部国境を流れ,下流でドブロジャ丘陵を迂回して黒海に注ぎ,河口に広さ4340km2のデルタをつくる。ほかに主要河川としては,トランシルバニアではムレシュ川が多くの支流を集めて西流し,ワラキアではジウJiul川,オルトOltul川が南流,モルドバではプルート川がウクライナ,モルドバ共和国との国境をなして南流し,いずれもドナウ川に合流する。 森林地帯はカルパティア山脈に集中するが,標高1000~1400mまではオークなどの広葉樹,1200~1400mはモミ,ドイツトウヒなどの針葉樹が繁茂する。…
…ドナウ川は南部国境を流れ,下流でドブロジャ丘陵を迂回して黒海に注ぎ,河口に広さ4340km2のデルタをつくる。ほかに主要河川としては,トランシルバニアではムレシュ川が多くの支流を集めて西流し,ワラキアではジウJiul川,オルトOltul川が南流,モルドバではプルート川がウクライナ,モルドバ共和国との国境をなして南流し,いずれもドナウ川に合流する。 森林地帯はカルパティア山脈に集中するが,標高1000~1400mまではオークなどの広葉樹,1200~1400mはモミ,ドイツトウヒなどの針葉樹が繁茂する。…
※「ワラキア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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