トルコ西部、ヨーロッパ側の西端にあってギリシアとの国境に接する都市。エディルネ県の県都。人口11万9298(2000)。メリチ川とその支流トゥンジャ川の合流点に位置する。トルコの西の玄関口であり、鉄道・道路交通の要衝である。じゅうたん、皮革などの工業もみられる。オスマン・トルコ帝国の旧都であり、オスマン・トルコの建築家ミマル・シナンの設計によるセリミエ・モスクやウチュ・シェレフェリ・モスクなどの名建築が残されている。
[末尾至行]
古代にトラキア人が建設し、ウスカダマUskadamaとよばれていた。125年ごろローマのハドリアヌス帝が再建し、ハドリアノポリスHadrianopolisと改名したことから、のちにアドリアノープルAdrianopleと称されるようになった。交通、戦略上の要衝にあり、ローマ帝政後期には州都として発展。378年、同市近郊で西ゴート人がローマのウァレンス帝を敗死させた「アドリアノープルの戦い」は、ゲルマン民族移動の開始を告げる事件であった。ビザンティン帝国におけるトラキア地方の要都として発展を続けたが、1361年、東方から進出したオスマン・トルコに征服され、エディルネと改称、1365年以後その首都となった。同王朝のコンスタンティノープル(イスタンブール)征服後はトルコ第二の都市として、バルカン支配の拠点となった。19世紀のロシア・トルコ戦争では二度(1829、1878)ロシアに占領され、1829年に同市で結ばれた和約(アドリアノープルの和)ではギリシアの独立が承認された。1913年ブルガリア領となるが、23年ローザンヌ条約によりトルコに返還された。
[後藤篤子・永田雄三]
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トルコ共和国のヨーロッパ領北西端,ギリシア国境近くに位置し,同名県の県都。人口12万2932(2003)。アジアとヨーロッパを結ぶ交通上の要路に位置し,現在はイスタンブール市場向けの農作物(小麦,野菜)の集荷地としての経済的機能を果たしている。この町の歴史は,古くトラキア時代にさかのぼるが,125年ころ,ローマ皇帝ハドリアヌスの再建によりハドリアノポリス(アドリアノープルAdrianople)として知られた。ビザンティン帝国時代をへて,1361年ころオスマン帝国領となり,1453年まで同帝国の首都として,バルカン支配の軍事的・政治的拠点となった。19世紀に2度ロシア軍の占領を受けたほか,1913年ブルガリア領,第1次世界大戦後ギリシア軍占領ののち,23年ローザンヌ条約によってトルコに復帰した。
執筆者:永田 雄三
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バルカン半島南東部の都市。旧名アドリアノープルはローマ皇帝ハドリアヌスに由来する。1361?~1453年の間オスマン帝国の首都であった。イスタンブル遷都後も帝国第2の都市として重視された。1829年この地でロシアとの間にエディルネ条約が結ばれた。
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… 彼はギリシア文化,特にアテナイ市を愛し,図書館やオリュンピエイオンなどを贈った。ハドリアノポリスHadrianopolis(後のアドリアノープル,現トルコ領エディルネ)も彼の建設にかかる。またローマにも巨費を投じてパンテオン,自身の霊廟,大ウィラ(ティボリ近郊の離宮)などを造営した。…
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