エディルネ(読み)えでぃるね(英語表記)Edirne

デジタル大辞泉 「エディルネ」の意味・読み・例文・類語

エディルネ(Edirne)

トルコ北西部の都市。ギリシャ・ブルガリアとの国境近く、メリチ川とその支流トゥンジャ川の合流点に位置する。古代ローマ時代、皇帝ハドリアヌスが建設してハドリアノポリスと命名し、のちにアドリアノープルとよばれた。14世紀にオスマン帝国のムラト1世に征服されて首都になり、コンスタンチノープル(現イスタンブール)陥落後は帝国第二の都市としてバルカン半島征服の拠点になった。旧市街には16世紀末に宮廷建築家ミマール=スィナンの設計で建造されたセリミエモスクをはじめ、ユチュシェレフェリモスクエスキモスクなどのイスラム寺院が残っている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エディルネ」の意味・わかりやすい解説

エディルネ
えでぃるね
Edirne

トルコ西部、ヨーロッパ側の西端にあってギリシアとの国境に接する都市。エディルネ県の県都。人口11万9298(2000)。メリチ川とその支流トゥンジャ川の合流点に位置する。トルコの西の玄関口であり、鉄道・道路交通の要衝である。じゅうたん、皮革などの工業もみられる。オスマン・トルコ帝国の旧都であり、オスマン・トルコの建築家ミマル・シナンの設計によるセリミエ・モスクやウチュ・シェレフェリ・モスクなどの名建築が残されている。

[末尾至行]

歴史

古代にトラキア人が建設し、ウスカダマUskadamaとよばれていた。125年ごろローマのハドリアヌス帝が再建し、ハドリアノポリスHadrianopolisと改名したことから、のちにアドリアノープルAdrianopleと称されるようになった。交通、戦略上の要衝にあり、ローマ帝政後期には州都として発展。378年、同市近郊で西ゴート人がローマのウァレンス帝を敗死させた「アドリアノープルの戦い」は、ゲルマン民族移動の開始を告げる事件であった。ビザンティン帝国におけるトラキア地方の要都として発展を続けたが、1361年、東方から進出したオスマン・トルコに征服され、エディルネと改称、1365年以後その首都となった。同王朝のコンスタンティノープル(イスタンブール)征服後はトルコ第二の都市として、バルカン支配の拠点となった。19世紀のロシア・トルコ戦争では二度(1829、1878)ロシアに占領され、1829年に同市で結ばれた和約(アドリアノープルの和)ではギリシアの独立が承認された。1913年ブルガリア領となるが、23年ローザンヌ条約によりトルコに返還された。

[後藤篤子・永田雄三]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エディルネ」の意味・わかりやすい解説

エディルネ
Edirne

トルコのヨーロッパ部分にある都市。旧称アドリアノープル。ローマ時代はハドリアノポリスと呼ばれた。エディルネ県の県都。ギリシア,ブルガリアとの国境に近く,トゥンジャ川マリツァ川の合流点に位置し,小アジアとバルカンとの交通の要衝を占める。古くはトラキア人が住んでいたと考えられ,125年頃ローマ皇帝ハドリアヌス市域を再建拡張した。アバール人ブルガール人の占領に続き,2度にわたって十字軍略奪を受けたが,1362年にオスマン帝国領となった。1413~58年オスマン帝国の首都。ヨーロッパ進出の前線基地となり,行政,通商,文化の中心として栄えた。ロシア,ブルガリア,トルコ,ギリシアと支配者が次々と代わったのち,1922年最終的にトルコ領に復帰した。綿・毛織物,皮革製品を産し,白チーズの特産がある。市の中心部にはいくつかのモスクがあり,セリミエ・モスクは 2011年世界遺産の文化遺産に登録された。ロンドン=イスタンブール鉄道に沿い,中央ヨーロッパやイスタンブールとハイウェーで結ばれる。人口 11万9298(2000)。

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改訂新版 世界大百科事典 「エディルネ」の意味・わかりやすい解説

エディルネ
Edirne

トルコ共和国のヨーロッパ領北西端,ギリシア国境近くに位置し,同名県の県都。人口12万2932(2003)。アジアとヨーロッパを結ぶ交通上の要路に位置し,現在はイスタンブール市場向けの農作物(小麦,野菜)の集荷地としての経済的機能を果たしている。この町の歴史は,古くトラキア時代にさかのぼるが,125年ころ,ローマ皇帝ハドリアヌスの再建によりハドリアノポリス(アドリアノープルAdrianople)として知られた。ビザンティン帝国時代をへて,1361年ころオスマン帝国領となり,1453年まで同帝国の首都として,バルカン支配の軍事的・政治的拠点となった。19世紀に2度ロシア軍の占領を受けたほか,1913年ブルガリア領,第1次世界大戦後ギリシア軍占領ののち,23年ローザンヌ条約によってトルコに復帰した。
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百科事典マイペディア 「エディルネ」の意味・わかりやすい解説

エディルネ

トルコのヨーロッパ側の同名県の主都。旧名アドリアノープル。トラキア平野の西端にあり商工業の中心地。歴史的建築物が多い。紀元前のトラキア時代にさかのぼる歴史をもつが,125年ころローマ皇帝ハドリアヌスが再建,交通の要地として栄える。1361年オスマン帝国領となり,1453年まで首都。19世紀露土戦争中2度ロシアに占領され,1923年ローザンヌ条約でトルコに返還。14万6503人(2012)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「エディルネ」の解説

エディルネ
Edirne

バルカン半島南東部の都市。旧名アドリアノープルはローマ皇帝ハドリアヌスに由来する。1361?~1453年の間オスマン帝国の首都であった。イスタンブル遷都後も帝国第2の都市として重視された。1829年この地でロシアとの間にエディルネ条約が結ばれた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「エディルネ」の解説

エディルネ

オスマン帝国

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世界大百科事典(旧版)内のエディルネの言及

【ハドリアヌス】より

… 彼はギリシア文化,特にアテナイ市を愛し,図書館やオリュンピエイオンなどを贈った。ハドリアノポリスHadrianopolis(後のアドリアノープル,現トルコ領エディルネ)も彼の建設にかかる。またローマにも巨費を投じてパンテオン,自身の霊廟,大ウィラ(ティボリ近郊の離宮)などを造営した。…

※「エディルネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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