森繁久弥(読み)モリシゲヒサヤ

デジタル大辞泉 「森繁久弥」の意味・読み・例文・類語

もりしげ‐ひさや【森繁久弥】

[1913~2009]俳優。大阪の生まれ。NHKアナウンサー軽演劇を経て映画界に進出。「社長」シリーズや「次郎長三国志」シリーズ、「夫婦善哉めおとぜんざい」など、数々のヒット作に出演した。舞台では、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」の主演で900回以上の公演を達成。歌手としても自ら作詞・作曲した「知床しれとこ旅情」をヒットさせるなど、幅広く活躍した。平成3年(1991)文化勲章受章。没後、国民栄誉賞受賞。

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「森繁久弥」の解説

森繁 久弥
モリシゲ ヒサヤ*


職業
俳優

肩書
日本俳優連合理事長

旧名・旧姓
菅沼

生年月日
大正2年 5月4日

出生地
大阪府 枚方市

学歴
早稲田第一高等学院卒 早稲田大学商学部〔昭和11年〕中退

経歴
二高教授、大阪市高級助役、大阪電灯常務などを歴任した菅沼達吉の庶子で、6人兄姉の末っ子。実の兄は2人で、次兄・菅沼俊哉は共同通信社常務理事。祖父・森泰次郎は幕府の大目付役であり、儒学者の成島柳北は祖父の実弟(大叔父)にあたる。2歳になる前に父を亡くし、小学5年の時に母方の祖父の家を継ぎ、森繁姓となる。旧制北野中学から早稲田第一高等学院に進み、早稲田大学商学部在学中は演劇研究部に所属。部の1年先輩に映画監督となった山本薩夫や谷口千吉がいた。昭和11年大学を中退して東京宝塚劇場に入り、東宝劇団や古川ロッパ一座などで活動。13年応召したが、耳の大手術をした後で即日帰郷となった。14年NHKに入局、アナウンサーとして旧満州の新京中央放送局に赴任した。21年末に引き揚げ、22年東宝映画「女優」の端役で映画デビュー。23年菊田一夫の舞台「鐘の鳴る丘」に出演し、24年新宿のムーランルージュに入団。25年30代半ばを過ぎてNHKラジオ「愉快な仲間」のレギュラーに起用されると、その才能に注目が集まり、25年ドタバタ喜劇「腰抜け二刀流」で映画初主演。27年サラリーマン喜劇映画三等重役」が出世作となってシリーズ化され、31年社長役を演じた「へそくり社長」からの〈社長〉シリーズがスタート。「駅前旅館」(33年)から24作製作された〈駅前〉シリーズと並んで、30作に及ぶ人気シリーズとなり東宝の喜劇映画を支え、〈次郎長三国志〉シリーズの森の石松役も人気を呼んだ。人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、また、それまでのドタバタの喜劇俳優とは違った、自然な演技の中で喜劇性を光らせることができるユニークな存在として、後進の俳優たちに大きな影響を与えた。淡島千景と共演して代表作となった「夫婦善哉」を始め、「警察日記」「神阪四郎の犯罪」「猫と庄造と二人のをんな」「雨情」「恍惚の人」などの演技も評価が高く、出演映画は250本以上。舞台にも力を入れ、37年座長1人だけの森繁劇団を旗揚げ。34年初演の「佐渡島他吉の生涯」、58年初演の「孤愁の岸」が代表作で、42年に初演したミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」の主人公テヴィエ役は、50年の再演から爆発的な人気を呼び、61年まで900回務めた。テレビでは、交流のあった向田邦子が脚本を手がけたホームドラマ「七人の孫」「だいこんの花」や〈おやじのヒゲ〉シリーズが有名。32年から平成20年まで半世紀にわたり、再放送を含めて2000回以上続いたNHKラジオ「日曜名作座」では、女優の加藤道子と2人だけで、何人もの人物を一人で演じわける話芸を披露した。滋味のある歌声でも知られ、昭和34年から7年連続でNHK「紅白歌合戦」に出場。映画「地の涯に生きるもの」のロケ先で作詞・作曲した「知床旅情」は加藤登紀子らにも歌われて大ヒットし、広く知られる曲となった。晩年は、平成9年公開のアニメ「もののけ姫」でイノシシの長老役を、11年CD「葉っぱのフレディ いのちの旅」の朗読を担当。16年のテレビドラマ「向田邦子の恋文」、映画「死に花」を最後に俳優活動から遠ざかった。映画・舞台・テレビ・ラジオ・朗読・歌と、昭和・平成の芸能界を代表する名優で、昭和59年文化功労者となり、平成3年大衆芸能分野から初めて文化勲章を受章。芸能界の長老として、先に亡くなっていく俳優たちへの弔辞を読む姿も知られた。他の出演作に、映画「珍品堂主人」「青べか物語」「台所太平記」「二百三高地」「連合艦隊」「小説吉田学校」「流転の海」、舞台「赤い絨氈」「南の島に雪が降る」、ドラマ「元禄太平記」「大往生」「怒る男・わらう女」など。文筆もよくし、著書に自伝「森繁自伝」「さすらいの唄」や、「こじき袋」「アッパさん船長」「見て来た・こんな・ヨーロッパ」「わたしの自由席」「にんげん望遠鏡」「もう一度逢いたい」「品格と色気と哀愁と」などがある。13年から「週刊新潮」に演出家・作家の久世光彦の文章で「大遺言書」を連載したが、18年22歳年下の久世が急逝。その葬儀に参列したのが最後の公の姿となった。21年96歳の天寿を全うした。同年国民栄誉賞を受け、俳優として初めて徒三位に叙された。

所属団体
日本ペンクラブ,日本文芸家協会

受賞
芸術選奨文部大臣賞〔昭和53年〕,文化功労者〔昭和59年〕,国民栄誉賞〔平成21年〕 紫綬褒章〔昭和50年〕,勲二等瑞宝章〔昭和62年〕,文化勲章〔平成3年〕 ブルーリボン賞(主演男優賞)〔昭和30年〕「夫婦善哉」,NHK和田賞〔昭和33年〕,NHK放送文化賞〔昭和39年〕,菊池寛賞〔昭和49年〕,ゴールデン・アロー賞(特別賞)〔昭和51年〕,毎日芸術賞〔昭和51年〕,菊田一夫演劇賞(大賞 第1回)〔昭和51年〕,紀伊国屋演劇賞(特別賞)〔昭和51年〕,芸能功労者表彰〔昭和54年〕,日本文芸家協会大賞〔昭和57年〕,日本アカデミー賞(特別賞)〔昭和58年〕,都民文化栄誉章(第1回)〔昭和58年〕,山路ふみ子賞(文化賞)〔昭和59年〕,菊田一夫演劇賞(特別賞)〔昭和60年〕,早稲田大学芸術功労者表彰〔昭和60年〕,交通文化賞(第33回)〔昭和61年〕,放送文化基金賞〔昭和62年〕,日本アカデミー賞(協会栄誉賞)〔平成4年・22年〕,日本映画批評家賞(ゴールデングローリー賞 第5回 平7年度)〔平成8年〕,東京都名誉都民〔平成9年〕,喜劇人大賞(名誉功労賞 第1回)〔平成16年〕,日本レコード大賞(特別功労賞 第51回)〔平成21年〕,日刊スポーツ映画大賞(特別賞 第22回)〔平成21年〕,毎日映画コンクール特別賞(第64回 平21年度) 毎日映画コンクール男優主演賞〔昭和30年〕

没年月日
平成21年 11月10日 (2009年)

家族
妻=森繁 万寿子(著述家・旅行家),父=菅沼 達吉(実業家),兄=菅沼 俊哉(共同通信社常務理事)

伝記
森繁さんの長い影人生はピンとキリだけ知ればいい―わが父森繁久弥銀幕の天才 森繁久弥森繁久弥86才芸談義隙間からスキマへなつかしい芸人たち 小林信彦著森繁健 和久昭子著山田 宏一 編倉本 聡 著森繁 久弥 著色川 武大 著(発行元 文芸春秋新潮社ワイズ出版小学館日本放送出版協会新潮社 ’10’10’03’99’92’89発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「森繁久弥」の意味・わかりやすい解説

森繁久弥
もりしげひさや
(1913―2009)

俳優。大阪府に生まれる。早稲田(わせだ)大学在学中から演劇活動を始め、中退後、日本劇場の演出助手を振り出しに東宝劇団、古川緑波(ろっぱ)一座などを経て、新京放送局に勤務。第二次世界大戦後は新宿ムーラン・ルージュ、帝劇ミュージカルスなどに出演、人気を得る。映画での初主演は1950年(昭和25)の『腰抜け二刀流』。その後『夫婦善哉(めおとぜんざい)』『警察日記』などに次々と主演。舞台でも『夫婦善哉』『佐渡島他吉(さどじまたきち)の生涯』など多くの傑作を残し、とくに『屋根の上のヴァイオリン弾き』は1967年の初演以来900回の上演を重ね、観客動員数延べ165万人の大記録を打ち立てた。紫綬(しじゅ)褒章、文化功労者、文化勲章など多数受賞。また文筆にも優れ、著書も多い。平成21年11月10日死去。死後、国民栄誉賞が贈られた。

[向井爽也]

『『森繁久弥 隙間からスキマへ』(1998・日本図書センター)』『『森繁自伝』(中公文庫)』『倉本聡著『森繁久弥86才芸談義』(小学館文庫)』

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百科事典マイペディア 「森繁久弥」の意味・わかりやすい解説

森繁久弥【もりしげひさや】

俳優。大阪府生れ。早大中退。中退の理由は軍事教練を拒否したためといわれる。在学中,山本薩夫,谷口千吉らと演劇活動に熱中した。東宝劇団などを経て,舞台,映画,放送で活躍。第2次大戦末期に満州新京放送局でアナウンサーをしたこともある。戦後歌うコメディアンとして頭角をあらわし,映画《次郎長三国志》シリーズ(1953―1954),《夫婦善哉(めおとぜんざい)》(1955年),《三等重役》シリーズ(1952年―1960年),《駅前旅館》をはじめとする《駅前》シリーズ(1958年―1969年)など数々のヒット作に出演。上演回数900回を記録したミュージカル〈屋根の上のバイオリン弾き〉(1967年初演)などが代表作。1991年文化勲章受章。2009年国民栄誉賞を受賞。
→関連項目フランキー堺

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「森繁久弥」の解説

森繁久弥 もりしげ-ひさや

1913-2009 昭和-平成時代の俳優。
大正2年5月4日生まれ。アナウンサー,コメディアンをへて昭和25年「腰抜け二刀流」で映画デビュー。「三等重役」「夫婦善哉(めおとぜんざい)」などで人気を博す。テレビ,舞台にも出演。歌手としても「知床旅情」をヒットさせ,ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」は900回以上の上演を記録した。平成3年文化勲章。平成21年11月10日死去。96歳。死後,国民栄誉賞を授与された。大阪出身。早大中退。

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367日誕生日大事典 「森繁久弥」の解説

森繁 久弥 (もりしげ ひさや)

生年月日:1913年5月4日
昭和時代;平成時代の俳優

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知恵蔵 「森繁久弥」の解説

森繁久弥

森繁久彌」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の森繁久弥の言及

【駅前旅館】より

…製作は東宝の子会社,東京映画。いずれも森繁久弥,伴淳三郎,フランキー堺のトリオを主役に,毎回変わる設定のなか,3人の持味を生かし,人情コメディを基本に,ドタバタ喜劇の活力,社会風俗の同時代性,新旧世代の心情の違いによる哀感などを巧みに取り入れ,人気を博した。《駅前旅館》は,井伏鱒二の同名小説を原作とする豊田四郎監督作品で,上野駅前の旅館の番頭(森繁)とライバル旅館の番頭(伴淳)と旅行社の添乗員(フランキー)を中心に(この3人の芸達者の〈芸〉が大きな見せどころになる),移りゆく旅館街のてんやわんや,お色気騒動などが描かれ,風俗映画の佳作となっている(例えば地方から慰安旅行に出てきた新興宗教団体の一行に〈今流行のドカビリを見せてけれ〉と請われたフランキー堺が三味線をギターに見たててロカビリー歌手を熱演すると,そのリズムに乗った一行から賽銭が飛んでくるといったシーンがある)。…

【喜劇映画】より

… 戦後の喜劇映画の主流は,笑いそのものを直接追求する映画ではなく,風俗劇の方向をたどることになる。例えば,コメディアンとして登場した森繁久弥も,その代表作は,ユーモラスではあるが,しかし笑いを目的としたものではない風俗人情劇《夫婦善哉》(1955)といえる。コメディアンも1人で観客を動員することが困難になっていった。…

【軽演劇】より

…37年に日中戦争が起きて以来,戦時色は日ごとに強まり,やがて41年には太平洋戦争に突入する。そんな中で,ロッパは,37年に渡辺篤,若手として森繁久弥(1913‐ ),山茶花究(さざんかきゆう)を入れ,座付作者の菊田一夫と組んで,《道修町(どしようまち)》《花咲く港》といった〈当時の風潮に従うようにみえて,実は一種の抵抗である芝居をやってのけた〉(小林信彦による)。一方,エノケンは,十八番の《法界坊》《らくだの馬さん》などで人気を博したが,彼の片腕ともいうべき座付作者,菊谷栄の戦死によって,しだいにバイタリティを失っていった。…

【夫婦善哉】より

豊田四郎監督作品。織田作之助の出世作であり代表作ともなっている同名小説(1940)の映画化(脚本は八住利雄)で,大阪船場の化粧品問屋の生活力のまったくない放蕩息子(森繁久弥)と水商売の女(淡島千景)との〈腐れ縁〉を笑いとペーソスのなかに描いた風俗映画の傑作として評価される。〈まるでこの作品のために生まれてきたような〉森繁久弥(1913‐ )の一つの頂点を示す名演で,〈おばはん,たよりにしてまっせ〉というラストシーンのせりふの名調子に象徴される関西弁の魅力とあいまって,大阪情緒に彩られた〈関西弁映画〉の代表作となるとともに,豊田四郎監督の〈文芸映画〉の代表作ともなっている。…

※「森繁久弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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