語源はイタリア語で「小さいオペラ」の意。かつては「喜歌劇」「軽歌劇」と訳されたが、今日では「オペレッタ」は世界共通語となり、対話と歌と踊りによって物語が展開する音楽劇の一ジャンルをさす。なお、このことばを最初に使ったのはモーツァルトで、オペラより規模が小さく、軽く楽しい音楽劇をこの名でよびたかったのであろう。オペレッタの始まりは、イタリアで18世紀の中ごろ、オペラの幕間(まくあい)に行われたコメディア・デラルテ(即興喜劇)風の小さな歌入り喜劇「インテルメッツォ」に端を発する。それがオペラ・ブッファとなり、ペルゴレージの『奥様女中』(1733)でジャンルが確立してヨーロッパに広まった。フランスではボードビル、オペラ・コミック、オペラ・ブフ、イギリスではバラッド・オペラ、ドイツとオーストリアではジングシュピールとして庶民に愛好されたものがそれである。
[寺崎裕則]
1848年、フランスに二月革命が起こり、ナポレオン3世の第二帝政時代が生まれ、1870年まで爛熟(らんじゅく)したデカダンスの華が開いた。このときジャック・オッフェンバックは、シェークスピアの「芝居は社会を映す鏡」のことばどおり、第二帝政時代を的確に音楽劇に映し出した。それは、底抜けに明るい音楽と美しいメロディ、テンポの早いガロップgalop(4分の2拍子の速い旋回舞曲)、フレンチ・カンカンで観客を楽しませると同時に、音楽と台詞(せりふ)のなかに社会を痛烈に風刺する「笑い」と「パロディー」をたっぷりしみ込ませたものであった。このオッフェンバックが創始した庶民の音楽劇がオペレッタである。1855年、彼はオペレッタ劇場ブフ・パリジャンを創設、オペレッタの世紀が始まる。そして3年後、『天国と地獄』が初演され、オペレッタはヨーロッパ中に広まった。
[寺崎裕則]
ジングシュピールが愛好されていたウィーンでは、当時ウィーン民衆劇(ウィーン・フォルクステアター)の第一人者であったネストロイが1858年、オッフェンバックの『提灯(ちょうちん)結婚』をネストロイ流に料理して紹介、大受けに受けたため、1860年には作曲者を迎えて『天国と地獄』を上演し大ヒットさせた。それに刺激されたスッペも『寄宿学校』を作曲、ウィンナ・オペレッタの世紀が始まる。そしてワルツ王ヨハン・シュトラウスは1874年『こうもり』を書いて早くも金字塔をたて、スッペの『ボッカチオ』、ミレッカーKarl Millöker(1842―1899)の『乞食(こじき)学生』とともにたちまち「黄金時代」を築いた。オッフェンバックとの違いは、風刺の矢は鋭くなく、マイルドで上品になり、カンカンのかわりにふんだんに優雅なウィンナ・ワルツを使ったことである。それは夢のような世界をつむぎだし、ウィーンの古き佳(よ)き時代を映すと同時に、人間の本質をも描き出した。1870年フランスで第二帝政が崩壊すると、オッフェンバックの人気は急速に衰え、オペレッタの中心はフランスからウィーンへ移った。
20世紀に入るとフランツ・レハールが『メリー・ウィドー』を、オスカー・シュトラウスは『ワルツの夢』を、エメリッヒ・カールマンは『チャールダーシュの女王』をつくり、たそがれのウィーン情緒、世紀末の風潮を色濃く映し出した。音楽的には、ウィンナ・ワルツにハンガリーの民族色濃いチャールダーシュやアメリカからフォックス・トロットのリズムが加わり、国際色豊かなものにさま変わりしていった。これを「白銀時代」とよぶ。
[寺崎裕則]
イギリスではちょうど「黄金時代」のころサリバンが出て、オペラ・コミックと称してバラッド・オペラの流れをくむ『ミカド』などをつくった。ドイツでは「白銀時代」のころ、ワルター・コロWalter Kollo(1878―1940)、エデュアルド・キュネッケEduard Künneke(1885―1953)やパウル・リンケPaul Lincke(1866―1946)が独特のベルリン・オペレッタを創(つく)った。そしてフランスではオッフェンバックと同時代やそれ以降、エルベHervé(フロリモン・ロンジェFlorimond Ronger。1825―1892)、ルコックAlexandre Charles Lecocq(1832―1918)、オードランEdmond Audran(1840―1901)、プランケットJean Julien Robert Planquette(1848―1903)、メサジェAndré Charles Prosper Messager(1853―1929)などが次々と時代にふさわしい作品を発表していた。こうしたオペレッタの形式は、19世紀末から20世紀以降アメリカに移ってミュージカルを生むことになる。そして第二次世界大戦が始まってからは、激動の時代を的確に反映することができず、人間の本質も描けなくなったオペレッタは衰え、大戦後の庶民の音楽劇はミュージカルにとってかわった。ウィーン、ブダペスト、パリ、リヨンなどでは今日も、国立オペレッタ劇場であるウィーン・フォルクスオーパーやブダペスト・オペレッタ劇場などで同時代のオペレッタとして生き生きと息づいているものの、1990年代以降はオペラ同様にオペレッタでも時代を現代に置き換えての演出が流行し、かえってオペレッタを衰退に向かわせている。それはオペレッタの本質にもとるもので、オペレッタは夢の世界で人間の本当の姿を描く音楽劇であり、現代化によって夢を失えば、オペレッタはオペレッタでなくなるからである。
[寺崎裕則]
1911年(明治44)に帝国劇場が竣工(しゅんこう)して、演出家ローシーの指導のもと帝国劇場歌劇部を中心とする日本初のオペラ「帝劇オペラ」の興業が始まった。しかしオペラでは客が入らなかったため、1914年(大正3)オッフェンバックの『天国と地獄』などのオペレッタへ移行したものの、1916年に解散となる。ローシーは同年11月、自らの理想のオペラを上演するため、赤坂に「ローヤル館」をつくり、ロッシーニの『セビーリャの理髪師』などの原語上演をしたが、これも不入り続きで、1918年ベルディの『椿姫(つばきひめ)』を最後に閉鎖、ローシーは失意のうちにアメリカへ発(た)った。
ところが皮肉にもローシーの播(ま)いたオペラ、オペレッタの種は形を変え、同時期に「浅草オペラ」として開花した。その成功の最大理由は、伊庭孝(いばたかし)、佐々紅華(さっさこうか)(1886―1961)、小林愛雄(ちかお)(1881―1945)ら浅草オペラのリーダーが、西洋のオペラ、オペレッタの直訳模倣ではなく、深く理解したうえで日本の風土に定着させるよう試みたことと、田谷力三(たやりきぞう)などの花形スターが誕生、観客を熱狂させたからである。だが、大正という時代を象徴さえした浅草オペラは、1923年(大正12)の関東大震災により、わずか6年で劇場、衣装、楽譜とともに灰燼(かいじん)に帰した。
時代は大正から昭和へと移り、浅草六区は軽演劇とレビューの時代となる。浅草オペラのスタッフや歌手は、軽演劇の隆盛に呑(の)みこまれながらも、田谷力三を中心にオペラやオペレッタの上演を続けたが、オペレッタの専門劇団は生まれなかった。一方、1934年(昭和9)日本最初の本格的なオペラ組織として藤原歌劇団が結成され、2年目にシューベルト/ベルテ作曲のオペレッタ『シューベルトの恋』(原題『三人姉妹の家』)が上演された。脚本は白井鉄造(てつぞう)、演出は岸田辰弥(たつや)(1892―1944)、シューベルト役は藤原義江(よしえ)、スタッフは宝塚歌劇団であった。このオペレッタの日本初演は1931年の宝塚歌劇団によるものであり、それまでレビューではオペレッタの名曲を挿入していたものの、完全上演は初めてであった。浅草オペラが消えた後、日本初のオペレッタといってもよい音楽劇を生み出したのは宝塚歌劇団だったのである。創始者小林一三(いちぞう)の哲学は、異文化たるレビューやオペレッタを直訳模倣するのではなく、日本人の口にあうように、それも初めての観客にもわかるようにつくり直すという、浅草オペラのリーダーたちと同じ考えのうえにあった。いうなれば、浅草オペラで開花したオペレッタは宝塚歌劇団に引き継がれ、日本のオペレッタの温床となったのである。
[寺崎裕則]
戦争中鳴りを潜めていたオペレッタは、1946年(昭和21)に東京都文化課の肝煎(きもい)りでアイヒベルクJulius Eichberg(1824―1893)の『アルカンタラの医者』が日比谷公会堂で上演された。都はアマチュアの都民合唱団をつくり、プランケットの『コルヌビーユの鐘』などに田谷力三、清水静子(1896―1973)ら浅草オペラの歌役者を起用、がぜんオペレッタ運動が台頭した。1949年には合唱指揮者でオペレッタに精通した沖不可止(ふかし)(?―1976)が日本オペレッタ協会を立ち上げ、戦後初の本格的なオペレッタとしてオッフェンバック『ブン大将(ジェロルスティン大公妃殿下)』が上演されたが、このオペレッタ運動も長くは続かなかった。
第二次世界大戦後、藤原義江は東宝、長門美保(ながとみほ)は松竹の援助を受け、競い合ってオペラを上演した。オペラ一辺倒の藤原に対し、長門はオペレッタにも関心を寄せ、テノールの荒木宏明(ひろあき)(1921―1985)を中心に数々のオペレッタを上演した。1950年、指揮者の金子登(のぼり)(1911―1987)、演出家の青山杉作、歌手の荒木宏明、関種子(せきたねこ)(1907―1990)などにより、白井鉄造をアドバイザーに東京オペラ協会が設立され、2年後にJ・シュトラウスの『こうもり』を日本初演したが解散。その年、東京芸術大学出身の中山悌一(ていいち)(1920―2009)など16人の歌手が「二期会」を創立、1970年代に入り立川澄人(すみと)(清登。1929―1985)を中心に『こうもり』を上演、以来レハール『メリー・ウィドー』、J・シュトラウス『ジプシー男爵』の日本初演を果たし、二期会にオペレッタの流れをつくった。その後1977年1月、演出家の寺崎裕則(ひろのり)(1933―2023)によって創立された「オペレッタ友の会」が、1981年に発展解消して「日本オペレッタ協会」となる。以後、日本オペレッタ協会は1991年(平成3)に財団法人化、1997年までに海外20作品の訳詞による日本初演を果たし、1998年には日本のオペレッタ史上初の海外公演としてレハール『ほほえみの国』をレハールの母国ハンガリーのブダペストで上演して大絶賛を浴びるなどした。その後も国内外でのオペレッタ創造と普及のために精力的な活動を続け、2014年(平成26)には特定非営利活動法人(NPO法人)として認証されている。1914年(大正3)に「帝劇オペラ」のオッフェンバック『天国と地獄』が上演されて以来、1世紀以上の道程を経て、日本のオペレッタはようやくここまでたどり着いたのである。
[寺崎裕則]
『大田黒元雄著『オペレッタ』(1950・湖山社)』▽『寺崎裕則著『魅惑のウィンナ・オペレッタ』(1983・音楽之友社)』▽『寺崎裕則・オーストリア国立劇場連盟著『ウィンナ・オペレッタへの招待』(1985・音楽之友社)』▽『白石隆生著『ウィンナ・オペレッタの世界』(1989・音楽之友社)』▽『寺崎裕則著『人間の音楽劇――オペラ・オペレッタの本質』(1991・音楽之友社)』▽『寺崎裕則著『夢をつむぐオペレッタ――その魅力と魔力を日本の土に』(1997・音楽之友社)』▽『永竹由幸著『オペレッタ名曲百科』(1999・音楽之友社)』▽『ジョゼ・ブリュイール著、窪川英水・大江真理訳『オペレッタ』(白水社・文庫クセジュ)』
〈小歌劇〉の意。この名称はすでに17世紀中ごろに小規模のオペラに使われていた。18世紀を通じてイタリアのオペラ・ブッファやインテルメッツォのドイツ語版や編曲に,フランスのボードビルやオペラ・コミックに,またジングシュピールや人気オペラのパロディに使われ,J.G.ワルターやJ.マッテゾンも〈小さなオペラ〉と定義している。しかし19世紀中ごろから対話・歌・舞踊から成る1~3幕の娯楽的な〈喜歌劇〉をさすようになった。こうした変化はフランスにあらわれ,オッフェンバックの《地獄のオルフェ(天国と地獄)》(1858)や《うるわしのエレーヌ》(1864)によってオペレッタの典型が作られ,第二帝政期のパリで熱狂的に受け入れられた。それは単純な形式(シャンソン,クープレ等),民謡の旋律,舞踏(カンカン,ギャロップ,ボレロ,ワルツ等)を結合し機知にあふれたパロディ風の喜劇的なものであった。彼の作品はウィーン,ベルリン,ロンドンで上演され,おのおのの郷土劇と結合し新しい展開をみせる。ウィーンではまずズッペが《寄宿学校》(1860)でウィーン風オペレッタの基礎を開き,J.シュトラウスの《こうもり》(1874)と《ジプシー男爵》(1885)によって黄金時代を迎える。洗練された題材,舞踏(とくにワルツ)と高度な音楽技法の駆使によってW.R.ワーグナーの楽劇に対抗する人気を博した。20世紀に入りレハールF.Lehár(1870-1948)の豪華なサロン劇《メリー・ウィドー》(1905)や人情喜劇《ほほえみの園》(1929)をはじめ数多くの作品が作られた。一方ベルリン風オペレッタはリンケR.Lincke(1866-1946)の《ルーナ夫人》(1899)に始まり風刺や活力あふれる簡潔なオペレッタが書かれ,第2次大戦後はアメリカのミュージカルの逆輸入によって1948-65年に130以上ものオペレッタが作曲された。イギリスでも1875年ころからA.S.サリバンが《ミカド》(1885)その他の風刺的作品で評判をとり,彼の作品はニューヨークで上演されアメリカにオペレッタ旋風を送る。V.ハーバートはJ.シュトラウスのオペレッタにならった作品を書いたが,J.カーンの《ショー・ボート》あたりからミュージカルへと移っていった。
→オペラ →ミュージカル
執筆者:井形 ちづる
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…18世紀以降は,これに対して,イタリアではオペラ・ブッファopera buffa(道化オペラの意),フランスではオペラ・コミックopéra comique(喜歌劇,のちにはせりふを含むオペラを意味する),イギリスではバラッド・オペラballad opera(俗謡オペラ),ドイツではジングシュピールSingspiel(歌芝居)など,より庶民的な性格の強いオペラのタイプが興ったが,それらに共通するのは,正歌劇や抒情悲劇の貴族性と形式ばった様式に対する反動とパロディの精神であった。つづく19世紀には,作品の規模,壮大な舞台効果,シリアスな情緒において,かつてない高みに登ろうとした〈グランド・オペラgrand opéra〉に対して,再び庶民的な気軽さと息抜きを求めるオペレッタが興った。このような経緯は,当初から町人の芸術として発達してきた歌舞伎には見られないところである。…
…先行芸術であるオペラのレチタティーボの代りに,音楽を伴わないせりふがあるという意味で,音楽性だけでなく文学性をも重視した演劇形態であるといえる。同じく先行芸術であるオペレッタと形式的には酷似しているが,題材の点でミュージカルのほうが庶民的で現実的である。他方,イギリスではミュージック・ホール,アメリカではミンストレル・ショー,バーレスク,ボードビルなどの大衆芸能にも依存して発達したが,これらの芸能が個々の出演者の芸や個々の場面によって観客に訴えたのに対して,ミュージカルは作品全体の魅力をも重視し,一貫した物語をもつ。…
※「オペレッタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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