ロートレック(読み)ろーとれっく(英語表記)Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロートレック」の意味・わかりやすい解説

ロートレック
ろーとれっく
Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa
(1864―1901)

フランスの画家、版画家。後期印象派の一人とされる。11月24日、南フランスのアルビに、フランスの大貴族の一人アルフォンス・トゥールーズ・ロートレック伯爵の嫡子として生まれる。少年時代は、パリの館(やかた)やオードにある母アデール・タピエ・ド・セレイランの館で過ごすことが多く、乗馬狩猟に親しむ貴族的な生活を送り、かたわら絵画にも早くから才能を示した。しかし、14歳から15歳にかけての二度の事故で両足を骨折して以来、下半身の成長が止まり、以後、絵画に専念し始める。当時の彼の絵の教師は、父の友人であった動物画家ルネ・プランストーで、ロートレックの描く主題も、馬、馬車などを主とし、的確な素描力、速度感の描出、光のとらえ方に早熟な天分を示している。1882年パリに出てレオン・ボナ、フェルナン・コルモンの画塾に学び、ここで、エミール・ベルナール、ゴッホに出会っている。ロートレックが新印象主義の点描法を採用したのは、ゴッホとの親交からきている。

 1884年モンマルトルにアトリエを構える。彼の独自な主題であるモンマルトルの歓楽街の情景の描写が多くなり、画風も印象主義からしだいに離れる。ナビ派の画家たちとの交流とその影響もあったが、ロートレックが終始尊敬したのはドガとフォランJean-Louis Forain(1852―1931)であり、パリ風俗の、ときには辛辣(しんらつ)だが、同時に深い共感を込めた作品が描かれる。ムーラン・ド・ラ・ギャレット、ムーラン・ルージュ、ミルリトンなどのキャバレー、そこで踊るラ・グーリュとパートナーの骨なしバランタンなどの踊り手が、線描シルエット重点を置き、人工光線の効果を求める手法で描かれる。『ムーラン・ルージュにて』(1892・シカゴ美術館)などにみられる、視角の設定の自由さ、前景に大きなシルエットを置く構図法は、ドガとジャポニスム(日本趣味)に由来している。1892年ごろからイベット・ギルベール、メイ・ベルフォールなどの歌手たちに興味をもち、的確な線描やシルエットで彼女たちの個性やその背後の生活を表現している。また、彼自身しばしば流連(いつづけ)し、多くの友人をもった女郎屋もロートレックの主要な主題の一つとなった。フェルナンドサーカスの曲馬師、軽業(かるわざ)師などもそうである。1890年代はロートレックの画業の成熟期であり、1893年にブソ・エ・バラドン画廊で行われた最初の個展は彼の名声を確立させた。技法的にも、カンバスだけではなく、板、紙、厚紙などに、油、揮発性のエッサンス油、水彩などを併用して描く手法を試みている。とくに、1891年にボナールに続いて試みた石版画によるポスター『ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ』以後、多くのポスターを制作、この分野に決定的な革新をもたらした。油彩の場合以上に大胆な省略とデフォルメクローズアップの手法は、この時期のアール・ヌーボー様式やジャポニスムに対応し、また20世紀のポスター芸術の出発点となった。彼は1892年から1899年の間に約300点の石版画を制作しているが、ここでもブラシと網目を用い、インクの飛沫(ひまつ)を利用するなど、さまざまな新手法をみいだしている。しかし、飲酒と放縦な生活は、やがて彼の精神と肉体を病ませ、1899年には病院に入院、まもなく退院したが、1901年9月9日マルロメにある母の館で没した。1922年、ロートレックの母が、残された作品約600点を生地のアルビに寄贈し、ロートレック美術館が創設された。

[中山公男]

『H・ペリュショ著、千葉順訳『ロートレックの生涯』(1979・講談社)』『A・フェルミジエ著、幸田礼雅訳『ロートレック――その生涯と作品』(1981・美術公論社)』『P・ユイスマン、M・ドルチ著、曽根元吉訳『ロートレックによるロートレック』(1965・美術出版社)』『D・クーパー解説、黒江光彦訳『ロートレック』(1962・美術出版社)』『千足伸行解説『現代世界美術全集9 ロートレック』(1970・集英社)』


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