日本大百科全書(ニッポニカ) 「メソアメリカ文明」の意味・わかりやすい解説
メソアメリカ文明
めそあめりかぶんめい
先スペイン期アメリカ大陸で複合的な階層社会が成立した文化的先進地帯を核アメリカとよび、メキシコから中米を経て南アメリカの中央アンデスまでをその範囲に入れるが、核アメリカの北部地帯に形成された文明がメソアメリカMesoamerica文明である。1943年に人類学者ポール・キルヒホッフによって提唱された概念で、メキシコの大部分と、グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドルの全域、ホンジュラス、ニカラグアの太平洋に面した一部の地域、およびコスタリカの北西部ニコヤ半島を包括する。メソアメリカは、中米南部から北アンデス地方にかけてのいわゆる中間地域を挟んで、南アメリカの中央アンデス文明圏と相対する。
[増田義郎]
文明特有の諸要素
キルヒホッフによれば、メソアメリカ特有の文化要素は次のようなものを含む。コアとよばれる握り棒を使う農耕、湖水に浮き島をつくって行うチナンパ農法、マゲイ(リュウゼツラン)の栽培とその繊維を材料とした布や紙の製作、プルケという酒の醸造、カカオの栽培、トウモロコシに灰や石灰を加えてつくった粉を原料とするパンの製造、黒曜石の使用、黒曜石やフリントの刃をつけた木剣、綿の刺子、階段状ピラミッドと漆食(しっくい)の塗装、輪のついた球技場、およびそこでゴムボールを使って行う儀礼的球技、象形文字、数字表記と位取りの観念、樹皮や鹿皮(しかがわ)を材料とした折り畳み式の絵文書、年譜・地図の制作、18月20日プラス5日=365日の長暦と20の記号および13の数字によってつくられる260日の短暦、両者が一致する52年の周期、一定の期日に行う祭典、吉日凶日の概念、誕生日の暦名による人名の命名、人身御供(ひとみごくう)、身体を傷つけ血を流すことによる自己犠牲、神々のパンテオンの観念、高い棹(さお)から垂らした縄によって空中を舞う儀式、他界の概念、分業化した市場、スパイの役も兼ねる商人、戦士集団、生贄(いけにえ)を得るための戦争。
キルヒホッフはあげていないが、世界に四つの方位を設定して色分けし、そのそれぞれに神を配置する観念などもメソアメリカ的要素のなかに加えてよかろう。他地域と共通した要素としては、農耕、土器製作、トウモロコシ、豆、カボチャ、綿の栽培、その他があげられている。他地域にあってメソアメリカにない要素としては、チブチャやアマゾニア北西部にみられる母系氏族、北アメリカ南西部やアマゾニアにある毒矢と毒槍(やり)、アンデスやチブチャにあるコカ栽培などが列挙されている。しかし、中央アンデスだけをとっても、コカのほかに、ラクダ科の動物(ラマ、アルパカ)、モルモットなどの家畜、ジャガイモ、キヌア、オカ、オユコその他の高地栽培植物、チーニョ(寒気で水分を除いた保存用ジャガイモ)の製作、人口の十進法分類、キープ(結縄)の使用、王道と宿場、飛脚のシステム、海藻の食用利用など、メソアメリカにない要素は非常に多い。また、アンデス、メソアメリカ共通の要素とされているもののなかにも、内容や意味が違うものが少なくない。
[増田義郎]
文明の推移
メソアメリカの文化的特徴は、形成期(前2000以後)とよばれる農耕と定住村落が確立された時代に基礎が固められ、オルメカ文明期(前1200~前400ころ)にその輪郭を明らかにしたと考えてよいが、それ以前の古期(前7000~前2000)に、乾燥化する環境に長い間かかって人間が適応し、植物を栽培化した過程に、早くもメソアメリカ的な要素が現れていたと考えることもできる。形成期から文明の開花期である古典期への移行は、従来古典マヤ文明の年代設定に従って紀元後300年に設定されていたが、メキシコ中央高原では西暦紀元初めに古典期は開始されたとみてよく、マヤ地域でも、最近の研究は、古典期の開始時期を100年ないし200年引き上げる傾向がある。古典マヤ文化は1000年ごろまでに消滅し、以後、一時トルテカ・マヤ文化の成立をみたものの、まもなく退廃期となるが、メキシコ中央高原では、古典期前期のテオティワカン文化の繁栄に続き、後期の地方諸文化の台頭期を経て、1000年ごろから、軍事的な首長制社会がおこり、後古典期に入る。そしてトルテカ系の民族が勢力をもったあと、その文化的影響を強く受けて、アステカ文明が14世紀に興隆し、1521年にスペイン人に滅ぼされるまで続いたのである。
[増田義郎]
最近の調査研究
メソアメリカの古期は、ウィリアム・マクニーシュのタマウリパス、テワカン、ベリーズにおける調査により明らかにされている。形成期は、メキシコ中央高原で初めて層位発掘を行ったジョージ・ベイラントを先頭に本格的調査が始まり、オルメカの遺跡はドラッカー、スターリング、マイケル・コーらが調査を行った。古典期、後古典期の遺跡調査には、アルフォンソ・カソをはじめとするメキシコの考古学者が大きな成果をあげている。マヤ地域の調査は、19世紀末以来、ハーバード大学、カーネギー研究所が手をつけてきたが、祭祀(さいし)センターに偏りすぎるという批判がおこり、第二次世界大戦後では、マヤ社会全体のセトルメント・パターンや生態学的条件などを含めた大型総合調査が主力となって、成果をあげている。この傾向は、中央高原の調査にも及ぼされ、ルネ・ミリョンのテオティワカン調査、ウィリアム・サンダースのメキシコ盆地調査などが行われた。なおマヤ地域では、1960年以後、文字の解読が進み、古典期文化の理解と解釈に革命的な変化をもたらしつつある。社会人類学的研究では、マヌエル・ガミオのテオティワカン調査を嚆矢(こうし)とするが、もっとも大きな影響力をもったのは、ロバート・レッドフィールドがテポストランやユカタン地方で行った社会調査であり、経済人類学的調査の先鞭(せんべん)をつけたソル・タックスのグアテマラ調査とともに、多くのコミュニティ研究を誘発した。1960年代に始まった大型プロジェクトとして、ハーバード大学のチアパス地方マヤ社会調査がある。最近では言語学やエスノヒストリー研究も盛んに行われている。今日までのメソアメリカに関する人類学的研究の成果は、『中部アメリカ・インディアン・ハンドブック』Handbook of Middle American Indians(全16巻、補遺既刊4巻)に集約されている。
[増田義郎]