モハーチの戦い(読み)もはーちのたたかい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「モハーチの戦い」の意味・わかりやすい解説

モハーチの戦い
もはーちのたたかい

1526年、現ハンガリー南部のモハーチMohácsで行われたオスマン・トルコ帝国軍とハンガリー軍との会戦。トルコ軍が勝利を得、続いてブダまで北上以後2世紀の間トルコの対ヨーロッパ戦線はハンガリーに膠着(こうちゃく)。国王ルドウィク(ラヨシュ)2世討ち死に後のハンガリーでは、王位をめぐって大貴族と中小貴族の対立が表面化し、サポヤイの東ハンガリー王国(後のトランシルバニア公国)と大貴族に推されたフェルディナンド1世の西ハンガリー王国が成立し、トルコ占領下の中部とあわせて三分割時代を迎えた。他方ハプスブルク家はハンガリーへの勢力拡大を果たし、また、チェコの新教派貴族を打ち破った1620年の白山戦いによるボヘミア支配とあわせて、以後5世紀にわたる中欧帝国の基礎を築いた。

[家田 修]

『矢田俊隆編『東欧史』新版(1977・山川出版社)』『嶋田襄平編『イスラム帝国の遺産』(1970・平凡社)』

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「モハーチの戦い」の解説

モハーチの戦い(モハーチのたたかい)
Mohács

1526年,ハンガリー南部のモハーチで戦われたハンガリー王国軍とオスマン帝国軍の戦争。21年にベオグラードを陥落させたオスマン軍が,ドナウ川を越えてハンガリーに進入し,同地でハンガリー軍と戦い,これを破った。この後オスマン軍はブダを落とし,ハンガリーは北部のハンガリー王国とオスマン帝国直領地とオスマンの保護国トランシルヴァニアに3分割された。またハンガリー国王ラヨシュ2世は戦死し,こののちハンガリー王はハプスブルク家が継承した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「モハーチの戦い」の解説

モハーチの戦い
モハーチのたたかい
Mohács

1526年,オスマン帝国がハンガリーを領有することになった戦い
西進してきたスレイマン1世のオスマン軍が,ドナウ川中流右岸のモハーチで,ヤゲウォ家出身のハンガリー王兼ベーメン王ラヨシュ2世率いるハンガリー軍を一蹴。この結果,ハンガリーの領土は,その後170年余りオスマン帝国の支配下に置かれた。いっぽう,若き国王が継嗣を残さず戦死したため,1515年のヤゲウォ家とハプスブルク家の二重婚姻による王位継承協定にそって,ハンガリー兼ベーメンの王位はハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フェルディナントが継承することになった。そのため,ハンガリーは王位をオーストリアが握り,領土をオスマン帝国が支配する地域となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モハーチの戦い」の意味・わかりやすい解説

モハーチの戦い
モハーチのたたかい
Battle of Mohács

1526年8月,ドナウ川右岸のモハーチで行われたオスマン帝国とハンガリーの戦い。バルカンを制圧して北上したオスマン帝国のスレイマン1世は,カルル5世の統治するオーストリアに迫ったが,防御の最前線にはハンガリー王ラヨシュ2世が立った。この戦闘でハンガリー軍は敗れ,ラヨシュ2世は陣没,王位は義弟にあたるオーストリア大公フェルディナント1世に継がれた。この結果ハプスブルク家はハンガリーを得たが,ハンガリーの土着貴族の反ハプスブルク的感情は根強く残り,これを背景として以後 150年オスマン帝国の支配が続いた。

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