東欧史(読み)とうおうし

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

東欧史
とうおうし

東欧史の特色と時代概観


東欧の概念
東欧ないし東ヨーロッパとは、ヨーロッパ大陸の東部地方をさす総称であるが、その範囲は分析の対象と時期に応じて異なる。ロシア、ウクライナなどの独立国家共同体(CIS)の国々、ギリシア、トルコがそれに含まれたり、フィンランドやバルト三国がその一部とされることもある。あるいは、ここで東欧として扱ったチェコ、スロバキア、ハンガリー、ポーランドなどが中欧という概念に入れられる場合もある。
 ここでは第二次世界大戦後の通例に従って、現在のポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、旧ユーゴスラビア諸国、ブルガリア、アルバニアからなる地域を主たる対象として取り扱う。これらの国々は、第二次世界大戦後、ソ連の勢力圏に入り、1980年代末まで社会主義的な政治・経済体制のもとにあり、1980年代末から1990年代初めにかけて、社会主義体制の崩壊を経験し、その後は体制転換の過程にある。なお、東ドイツ(ドイツ民主共和国)については、別項目「ドイツ史」のなかで解説されるため、本項では省かれている。[木戸 蓊・林 忠行]
東欧史の特色
以上の意味で、ここでいう東欧とは主として政治的基準による概念であるが、しかし第二次世界大戦後この地域が社会主義化したのは共通の歴史的条件によるものであり、政治的特徴と歴史的背景とを切り離すことはできない。
 この地域の歴史的特色は、一つにはそのほとんどの国がヨーロッパの後進地域に属してきたということであり、もう一つは長期にわたって外国支配のもとに置かれ、国としての独立過程で、また独立後も、列強の勢力圏抗争の舞台となったことである。この地域は、古代・中世以来、多くの帝国、あるいは民族が縦横に通過し、交錯した地帯でもあり、ポーランド、ハンガリーなどを除けば国民国家の形成が遅れ、中欧や西欧のような内発的発展の契機が生まれなかった。そのため、近代に入って、そのすべてがオスマン、オーストリア、ロシア、プロイセンなどの周辺帝国の支配下に組み込まれるに至った。
 その後、ことに19世紀になってから、この地域にも民族自立を求める気運が沸き起こったが、列強がそれを自己の政治的野心に利用したため、東ヨーロッパは「ヨーロッパの火薬庫」「防疫線」「緩衝地帯」などという不名誉な呼び名をつけられることになった。20世紀の二つの世界大戦の発生が直接的にはこの地域に起因しているのも、そのことの現れである。また、第二次世界大戦中および戦後にソ連がこの地域を自己の影響下に置くことに固執したのも、同国の安全保障に対する強烈な関心の反映であったといえよう。[木戸 蓊・林 忠行]
時代区分
この地域の歴史的特色は、その時代区分のあり方を直接に左右する。西欧史の主要な部分が内発的契機の変化を軸にして記述されるのに対して、東欧史は対外関係の変化を抜きにしては考えられない。後述するように、東欧諸国自体では自民族の主体的発展の側面を誇大に評価する傾向がみられるが、それは、東欧における発展をすべて西欧からの影響によるとみなしがちであったかつての欧米の史学の裏返しでしかないといえよう。
 東欧史を区分するには、したがって外部世界とのつながりを基軸にせざるをえない。諸民族が定住し、それぞれの国家を形成したのち、諸外国に支配されていく過程をまず取り上げ、ついで近代に入って各国が独立を達成していくにあたり、外部の強力な影響力にさらされ、さまざまなゆがみが残され、あるいは形成されていく過程を観察し、最後にそうした諸要因が第二次世界大戦後一つのブロックに組み込まれたこの地域において、どのように持続され、あるいはどのように変化したかを把握するということになる。ことに1960年代以降この地域に強く作用し始めた自立化と多様化の傾向に注目することが、東欧史を一つの通史としてみるうえでも重要になってくる。[木戸 蓊・林 忠行]

諸民族の建国と従属化


諸民族の定住
東欧の主要民族であるスラブ人の起源と原住地についてはいくつかの説があるが、確定できない。原スラブ人はビスワ川中流域からドニエプル川中流域にまたがる地域に居住しており、2世紀から6世紀にかけて分裂しながら居住地を拡散させていった。東スラブ人はロシア平原西部に定住し、西スラブ人はさらに分化してポーランド人、チェコ人、スロバキア人などを形成した。南スラブ人は、6~7世紀にドナウ川とドラバ川を越えてバルカン半島に展開し、スロベニア人が東アルプスの谷間に、クロアチア人がイリリア地方北西部に、セルビア人が同地方南部からさらに南方にかけて住み着いた。
 スラブ人が移住するまでのバルカン半島には、ギリシア人、トラキア人、イリリア人が居住していた。そのうちトラキア人系のダキア人は、紀元前1世紀に現在のルーマニア地方に国家を建設し、紀元後2世紀初頭にローマ帝国に征服されてラテン系の言語を受け入れたが、3世紀にゴート人が侵入、ローマ帝国が同地から撤収した際に四散してしまった。イリリア人の一部は、南スラブ人が南下してきたときにダルマチア南部の山地に逃げ込んで、アルバニア人の根幹を形成したといわれる。また、ドナウ川を渡って南下したチュルク系遊牧民と考えられるブルガル人は、7世紀後半に現在のブルガリア地方に定着した。彼らはその後1世紀余りのうちに農耕のスラブ人を支配して国家を築いたが、その過程でスラブ系の言語と文化に同化されていった。さらに、ドン川流域からフィン・ウゴル系のマジャール人がしだいに西進し、10世紀にはパンノニア地方に定住した。[木戸 蓊・林 忠行]
中世国家の形成
このようにして東欧諸民族は、ほぼ現在の地に定住するようになったが、この時期の重要な事態は、それらの諸民族が、東西に分裂したキリスト教会のいずれかからキリスト教を受け入れたことである。9世紀に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が布教のため大モラビア国に派遣したコンスタンティノス(キリロス)とメトディオスの兄弟は、スラブ文字(グラゴール文字)を考案し、スラブ語典礼による布教にあたった。その後、ブルガリア人、ロシア人、セルビア人などが東方正教会から、ポーランド人、チェコ人、ハンガリー人などはローマ・カトリック教会からキリスト教を受け入れ、クロアチア人、スロベニア人もそれに倣った。こうして形成された正教圏およびカトリック圏という二つの宗教圏の相違が、東欧における文化的断層のひとつとなった。
 東欧に最初に誕生したスラブ人国家は、7世紀のボヘミア、モラビア地方のサモ王国であったが、同王国の崩壊後、その地域はアバール人の支配下におかれた。その後フランク王国がアバール人を駆逐し、西スラブ人のほかスロベニア人、クロアチア人をも支配下に置いた。西スラブ人は9世紀になって、フランク王国に対抗して大モラビア国を建設し、中欧に大きく版図を広げたが、10世紀初めに西進してきたマジャール人によって滅ぼされた。[木戸 蓊・林 忠行]
繁栄する東欧
マジャール人は、アールパード朝のイシュトバーン1世(在位1000~1038)の下でハンガリー王国の基礎を築き、11世紀末にはトランシルバニア、クロアチアに領域を広げた。ボヘミア地方は、9世紀末に大モラビア国を離れ、プシェミスル家によってボヘミア王国が建設された。ポーランドでは10世紀後半にピアスト家が支配を固め、ボレスワフ1世(在位992~1025)、ボレスワフ2世(在位1058~1079)の治下に王国の統一がなった。なお、12世紀からドイツ人が布教を目的にバルト海沿岸やシレジア、ボヘミアに植民を進め、西スラブ人と抗争した。
 バルカンにおける南スラブ人の建国も早く、ことに9世紀にボリス1世(在位852~888)によって基礎が固められた第一次ブルガリア帝国は、その子シメオン1世(在位893~927)の時代に東ローマ帝国と張り合う大国となった。12世紀末になると第二次ブルガリア帝国が再建されたが、やがて衰退した。セルビア人は9世紀にボスニア地方に二つの小国家をつくったが、12世紀には東ローマ帝国の弱体化に助けられて強固なセルビア王国を築いた。
 13世紀中葉にモンゴル人が東ヨーロッパを襲い、ポーランド、ハンガリーなどは大きな被害を受けたが、その後の復興の過程で「輝ける14世紀」が東欧を訪れた。ボヘミアではルクセンブルク朝のカレル1世(在位1346~1378)が神聖ローマ皇帝(神聖ローマ皇帝としてはカール4世、在位1355~1378)を兼ね、プラハを一大文化都市に仕立てた。ハンガリーでは、アンジュー朝のカーロイ1世(在位1308~1342)、ラヨシュ1世(在位1342~1382)下に安定した国家制度が築かれた。セルビアのステバン・ドゥシャン(在位1331~1355)は、バルカンの3分の2近くを占める大帝国を実現するとともに、「ドゥシャン法典」を公布するなど高度な文化を創造した。ドナウ川下流地域では、前述したダキア人の子孫が、14世紀の前半に宗主国であるハンガリーに反抗してワラキア公国を、同世紀中葉にモルドバ公国を建設した。
 ポーランドでは、14世紀末に女王ヤドビガJadwiga(在位1384~1399)が東隣のリトアニアの大公ヤギェウォ2世Jagieo (在位1386~1434)と結婚、ヤギェウォ朝を迎えた。この王朝のもとで、ポーランド王国はドイツ騎士団の東進を阻み、バルト海から黒海にまで達する大国となり、16世紀には「黄金の世紀」とよばれる政治的、文化的繁栄を謳歌(おうか)した。なお、ポーランド、ハンガリー、ボヘミアにはイタリアからルネサンスの影響が波及したが、他方で社会面では貴族権力の強化とともに、農民の新たな農奴化(再版農奴制とよばれる)が進行した。[木戸 蓊・林 忠行]
オスマン帝国のバルカン支配
14世紀中ごろアナトリアからバルカン半島に進出したオスマン帝国は、しだいにその支配領域を広げて、1389年にコソボ平原でセルビア人、ブルガリア人、アルバニア人などの連合軍を破り(コソボの戦い)、1453年には東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都コンスタンティノープルを陥落させてイスタンブールと改称、自らの首都にした。宗教対立と領主による収奪に悩んでいたバルカン農民の間には、宗教的にも社会的にもより寛容なオスマン帝国をむしろ歓迎する気運すらみられた。
 その後も、スカンデルベグ(在位1405~1468)のアルバニア、シュテファン3世tefan (在位1457~1504)のモルドバ、ミハイ勇敢王(在位1593~1601)のワラキアなどが頑強にオスマン軍に抵抗したが、これらの王の死後それぞれにオスマン帝国の支配下に陥った。ミハイ勇敢王がモルドバ、トランシルバニアなどにわたるルーマニア人居住地を統合し、一時的に「大ルーマニア」を実現させたことは特筆すべきであろう。モルドバ、ワラキアは敗北後も、オスマン帝国宗主権下の公国の地位を維持した。
 スレイマン1世(在位1520~1566)の時代に、オスマン帝国はバルカンから中東、北アフリカ一帯に及ぶ領域を支配し、1526年のモハーチの戦いでハンガリーを破り、その国土の大半を帝国に編入し、さらにウィーンを攻略する勢いを示した。その後、帝国は、官僚の腐敗、私的土地所有の普及、他の列強の圧力などのため、17世紀以降しだいに衰退の方向をたどっていった。数世紀に及ぶオスマン帝国の支配は、バルカンの文化的多元性を固定化させ、都市と農村との溝をさらに深める結果をもたらした。[木戸 蓊・林 忠行]
列強による支配
モハーチの戦いの後、オスマン帝国に対抗するため、オーストリア諸邦を治めていたハプスブルク家のフェルディナントは、ハンガリー王とボヘミア王の地位を引き継いだ。15世紀初めのボヘミアでのフス派による宗教改革は、一時は共和政府を樹立する勢いを示したが、弾圧と内部分裂で終息した。1620年に反乱を起こしたボヘミアの新教貴族はプラハ郊外のビーラー・ホラで完敗した。これ以後、ボヘミアは再カトリック化され、しだいにハプスブルク帝国のもとでボヘミア王国の自立性は失われていく。他方、ハンガリー王国は、帝国のなかで一定の自立性を保った。
 ポーランドは、ヤギェウォ朝のもとで繁栄したが、この外来の王朝を迎えてからポーランド人貴族の権限が強化され、「シュラフタ民主制」とよばれる議会制度が発達した。しかし17世紀にそれがすべての議員に拒否権を認める「リベルム・ベト制」にまで徹底されるに及んで国政は麻痺(まひ)し、力をつけてきた周辺諸国に頻繁に襲われるようになった。そして18世紀末にポーランド王国は、ロシア、プロイセン、オーストリアによる3次にわたる分割の対象となり、滅亡した。[木戸 蓊・林 忠行]

独立東欧の栄光と苦悩


民族の覚醒
独立を喪失した東欧地域では、19世紀に入ると各地で民族覚醒(かくせい)の気運が生まれた。その際、バルカン諸国は、支配者が衰退しつつあるオスマン帝国であったこともあり、政治的独立の点では全般に先行するが、経済や文化の発展は遅れた。それに対して東欧の北部地域(のちに東部中欧という意味で「東中欧」とよばれる)は、第一次世界大戦まで政治的自立を達成できないが、経済発展や文化・教育の面では大きな発展を示した。
 なかでもボヘミア、ハンガリー両地方は、ハプスブルク家の啓蒙(けいもう)君主による諸改革の影響で18世紀後半から産業が栄え、19世紀になって民族的自覚が高まった。1848年のウィーンにおける革命(三月革命)の機会に、ハンガリー、ボヘミアでも革命が発生し、ことにハンガリーではコシュートが革命政権を樹立したが、オーストリアおよびロシア両国の軍事力に屈した。その後ハンガリーの自治は奪われたが、オーストリアのプロイセンに対する敗戦(プロイセン・オーストリア戦争)を契機に、1867年に二重君主国が成立し、ハンガリー人はオーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)の支配の一翼を担うこととなった。それに不満なチェコ人の民族的権利の要求が、その後の二重君主国最大の政治問題となった。
 チェコ人と同系のスロバキア人は、ハンガリーの直接支配のもとに置かれたが、その聖職者や知識人の一部は民族意識に目覚めた。ハプスブルク支配下のクロアチア人、スロベニア人も、ナポレオン1世がダルマチア地方を直轄の「イリリア州」としたことに刺激され、「イリリア運動」という南スラブ統一運動を進めた。民族の生存権を否認され、ロシア化、ドイツ化を強要されたポーランド人は、1830年、1846年、1848年、1863年など頻繁に蜂起(ほうき)を繰り返したが、いずれも鎮圧された。[木戸 蓊・林 忠行]
バルカン民族の独立
バルカンでも18世紀以降、商人、手工業者、聖職者の間に民族的自覚が生まれたが、それを政治的独立に導いたのはオスマン帝国への列強の介入であった。まずハプスブルク家が1699年にオスマン帝国に勝利を収め、クロアチアを含むハンガリー王国領を回複し、トランシルバニアもその支配下においた。ついでロシアがしばしばオスマン帝国と戦い、1774年にオスマン帝国内のキリスト教徒保護の名目でルーマニア人の2公国などに干渉する権利を手に入れた。
 最初に独立闘争を開始したのはセルビア人で、1804年にオスマン軍の横暴に対してカラジョルジェに率いられたセルビアの農民が反旗を翻した。反乱は失敗したが、1815年にミロシュ・オブレノビチ(在位1815~1839)が国際情勢を利用してオスマン帝国にセルビアの自治を認めさせるのに成功した。セルビア南西のモンテネグロ(ツルナゴーラ)は、険しい地形のおかげで事実上の自治性を維持し、ことにペータル1世(在位1782~1830)はロシアと組んで領域を拡張した。南のアルバニアでも、エピルス地方のヤニナの半独立の首長アリ・パシャは巧妙に支配地を拡大し、1820年に公然とオスマン帝国と戦ったが敗北した。
 モルドバ、ワラキアでは、1821年のウラジミレスクによる農民反乱、1848年の民族蜂起などを経て、クリミア戦争後の1856年のパリ会議において自治が認められることになった。両公国は初代大公にクーザを選出し、1861年にはルーマニアという単一の自治公国となった。独立の気運が遅れていたブルガリアでも、1860年代から1870年代にかけて周辺諸国からブルガリア人革命集団が帰国し、オスマン帝国の支配と戦った。1875年にボスニア・ヘルツェゴビナで発生した蜂起がブルガリアに波及、さらにはロシア・トルコ戦争(1877~1878)に発展し、勝利を収めたロシアはオスマン帝国にサン・ステファノ条約を認めさせた。この条約により、バルカン南部にロシアの影響下に広大なブルガリア自治公国がつくられることになったが、これに強く反発した他の列強は、ベルリン会議(1878)を開かせた。その結果のベルリン条約では、ブルガリア自治公国とされた地域のうち、マケドニアはオスマン帝国に返還され、バルカン山脈以南は東ルーメリアという別の自治州とされた。この2条約により、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアが完全独立を達成した。[木戸 蓊・林 忠行]
バルカンの動乱と第一次世界大戦
ベルリン会議によって、オスマン帝国の衰退とバルカン諸民族の独立気運に乗じて南下を図ろうとするロシアと、それを阻止して自らの領域を広げようとするオーストリア・ハンガリーとの対立を軸に、バルカンをめぐって列強の抗争が強まったことが明らかになった(東方問題またはバルカン問題とよばれる)。独立したバルカン諸国も、ルーマニア、ギリシア、ブルガリアがドイツ系の国王ないし大公を迎えたこともあって、列強の強烈な政治的引力に翻弄(ほんろう)された。それらの国では、国家の建設に際して軍備拡充と鉄道構築のため諸外国に巨額の借款をしており、それが対外従属をさらに深化させた。農民は独立前よりも過酷な租税や借金の重荷を負い、都市と農村の社会的分裂は拡大し、「下からの国民形成」はいっそう絶望的となった。
 20世紀に入り、日露戦争に敗北したロシアが、極東への進出をあきらめ、南スラブを足掛りにバルカンにさらに強力に進出しようとするのをみたオーストリア・ハンガリーは、1908年の青年トルコ党革命による混乱を機に、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合を実施した。ブルガリアはこれを好機として完全独立を宣言した。オーストリア・ハンガリーの行動に反発したセルビアは、ロシアの支援を得て、1912年にモンテネグロ、ギリシア、ブルガリアとバルカン同盟を結び、オスマン帝国に対して宣戦した(第一次バルカン戦争)。翌1913年に同盟側が勝利を収めたが、マケドニアをセルビア、ギリシアに支配されたことに不満なブルガリアは、セルビア、ギリシアほかのバルカン諸国と戦って敗北した(第二次バルカン戦争)。
 二つのブロックに分かれて対立していたヨーロッパ列強は、このバルカン戦争に際して三国協商(イギリス・フランス・ロシア)側がバルカン同盟を支援し、中央同盟(ドイツ・オーストリア)側がそれに反発して、さらにその対立を高進させた。そして1914年6月にサライエボで、セルビア人青年がオーストリア・ハンガリーの皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻を暗殺した事件をきっかけに、両者は全面戦争になだれ込んでいった(第一次世界大戦)。東欧では、セルビアが同年7月にオーストリア・ハンガリーの攻撃を受けたのを最初に、バルカン戦争の失地回復をねらうブルガリアが1915年10月に中央同盟側にたって参戦し、戦線の行く先をみていたルーマニアは1916年8月に協商側についた。他方、諸帝国の支配下にあった東欧の北部(東中欧)諸民族は、有無をいわさずそれぞれの戦線へ駆り出され、ときには同系民族どうしが戦う事態に追い込まれるに至った。[木戸 蓊・林 忠行]
第一次世界大戦後の東欧
第一次世界大戦前後に、ロシア、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、オスマンの4帝国が崩壊し、東欧には多くの新興国家が誕生した。分割されていたポーランドでは、ピウスツキが独立軍を結成して戦い、1918年に共和国として独立を回復した。さらにマサリク(父)が連合国を説きつけた結果、同じ1918年にチェコとスロバキアとがチェコスロバキア共和国として統一国家を建設した。オーストリア・ハンガリーの支配下にあったクロアチア人、スロベニア人は南スラブの統一運動を進めていたが、大戦中にセルビア首相と統一国家結成について合意に達し、1918年にセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国と改称)が樹立された。
 新興国家の建設は「民族自決」の実現を意味したが、同時にそれらの国に有利な形で恣意(しい)的な国境の決定がなされた。ポーランドは、バルト海への出口を獲得することによってドイツを二分し、また1920年の対ソビエト戦争によって広大なウクライナ人、ベラルーシ人の居住地を併合した。チェコスロバキアのチェコ地方にはズデーテン地方を中心に約300万のドイツ人が含まれ、スロバキア地方には多数のハンガリー人が囲い込まれることとなった。
 ルーマニアは、バルカン戦争の際にブルガリアから南ドブルジアを奪い、ロシア革命(1917)の混乱に乗じてベッサラビアを獲得し、パリ講和会議(1919)でトランシルバニア、ブコビナ、バーナートの領有を認められ、歴史的な「大ルーマニア」の夢を実現させた。しかしその結果、同国の少数民族は全人口の4分の1、約450万にも上り、近隣諸国からの領土回復要求の圧力におびえ続けることとなる。オーストリア・ハンガリーの敗戦に伴い、ハンガリーは独立したが、講和条約によってその領土の68%、人口の59%を失うことになり、失地回復要求がその後の政局を支配するに至った。
 同じ敗戦国ブルガリアも、エーゲ海への出口をギリシアにとられ、マケドニア地方のいくつかの飛び地を南スラブ国家に奪われた。
 なお、バルカン戦争に際して自己の居住地がバルカン諸国に分割されるのを恐れたアルバニア人は、オーストリア・ハンガリーとイタリアとの支持を背景に、1912年に独立を宣言した。大戦中は諸外国に占領されたが、1918年に臨時政府を樹立、1920年までに領内にいた南スラブ軍とイタリア軍を追い出し、国際的承認を得ることに成功した。[木戸 蓊・林 忠行]
独立東欧の課題
第一次世界大戦後新しく出発した東欧諸国の多くは、深刻な政治的・経済的危機にみまわれた。ロシア革命の影響でハンガリーにソビエト革命が発生したほか、各地に社会的動揺が広がる一方で、イギリス、フランスは東欧をボリシェビズムに対する防波堤に育成しようとして右派勢力にてこ入れした。不自然な政治地図から生まれる領土問題や民族問題も、相互的な敵対意識を肥大させ、強権体制化を促進する役割を果たした。
 ポーランドでは、ピウスツキと国民民主党との対立を軸とする政治危機のなかで、1926年にピウスツキはクーデターを敢行、権威主義体制を固めたが、1935年の彼の死後、社会的分裂は深刻化した。第一次世界大戦前から工業化が進んでいたチェコスロバキアでは、東欧では例外的に経済発展がみられ、議会制民主主義も順調に機能したが、スロバキア人の自治は認められず、スロバキア人民党はしだいに反体制化し、ファシズムに利用されるようになった。ユーゴスラビアではセルビア人が国家統治を独占しようとしたため、クロアチア農民党に結集したクロアチア人の不満が政治麻痺(まひ)の原因となり、1929年のアレクサンダル1世(在位1921~1934)による国王独裁につながった。
 1919年のクンによるソビエト革命がルーマニアの軍事介入でつぶされたハンガリーでは、ホルティ(ホルティ・ミクローシュ)提督による反革命政権が樹立されたが、政治・経済危機のなかで独伊ファシズムの影響が波及し、ファシスト団体「矢十字党」が成長した。ルーマニアでも、社会的動揺は克服されず、30年に帰国して王位についたカロル2世(在位1930~1940)は、1938年に国王の独裁制を宣告し、国王政府と、一般には「鉄衛団」の名で知られるファシスト組織との間でテロの応酬が起きた。ブルガリアでは、1919年に急進的なスタンボリースキ農民同盟政権が出現したが、1923年に軍部、右翼、マケドニア人組織によるクーデターで崩壊、国内対立が続いたのち、1935年に国王ボリス3世(在位1918~1943)が独裁制を敷いた。アルバニアでは、1925年に外国の軍事力を借りて政権についたゾーグ1世(在位1928~1939)が、1928年に国王を名のり、イタリアに接近したあげく、1939年にはイタリアによる占領を招いた。[木戸 蓊・林 忠行]
両大戦間期の東欧をめぐる国際関係
ベルサイユ体制の受益国であるチェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアは、フランスを後ろ盾として1921年に「小協商」とよばれる安全保障体制を築いた。フランスは1924年にも、チェコスロバキアと相互保障条約を結んだ。しかし1930年代に入り経済・政治危機が深刻化するなかで、1933年にドイツに誕生したヒトラー政権が再軍備やラインラント進駐を宣言し、イタリアがエチオピア侵略を実行したのに対して、国際連盟は無力さを露呈した。ハンガリー、ブルガリアなどの現状打破勢力はにわかに勢いづいた。ユーゴスラビア、ルーマニア、ギリシア、トルコは1934年にバルカン連盟を結成したが、それを支援するべき英仏側の動きは弱く、他方1930年代全体を通じて東欧全体がドイツの経済圏に組み込まれていった。やがて東欧諸国は個別的にドイツ、イタリアなどとの関係を改善し、自力で安全を確保する方向を探り始めた。
 1938年にオーストリアを併合したヒトラーは、チェコスロバキアにズデーテン地方の割譲を要求した。9月のミュンヘン会談によりその要求を実現させたドイツは、翌1939年3月にスロバキアを「独立」させ、残りのチェコ領を保護領とした。さらにヒトラーは、ポーランドに対してダンツィヒ(グダニスク)市のドイツ編入と「ポーランド回廊」の開放を要求、9月1日にポーランドに侵入し、第二次世界大戦を引き起こした。
 9月17日にはソ連もポーランド東部を占領し、ポーランドはふたたび分割された。翌1940年になるとルーマニアに対して、ソ連がベッサラビア、ブコビナを、ハンガリーがトランシルバニアを、ブルガリアが南ドブルジアを返還するようにそれぞれ要求した。その結果ルーマニアは国土の3分の1以上を失った。1941年4月にドイツはユーゴスラビアを攻撃、6月には独ソ戦が開始され、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアがドイツ側(枢軸側)にたって参戦した。[木戸 蓊・林 忠行]

第二次世界大戦後の東欧


第二次世界大戦とパルチザン闘争
独ソ戦開始と同時に、ユーゴスラビアでは、共産党のチトーが強力な対独パルチザン闘争を展開した。旧正規軍の一部も「チェトニク」という抵抗組織をつくったが、勢力を拡大できず、1943年には連合国もチトーの部隊を支援するに至った。1945年にパルチザンは80万を数え、3月には亡命政府側からの3閣僚を加えたチトー政権が成立した。イタリアの占領下に置かれたアルバニアでは、1941年11月にユーゴスラビア共産党の援助により共産党が結成され、ホッジャを指導者とするパルチザン闘争が開始された。パルチザンは他の勢力を排除して拡大し、1944年10月にはホッジャを首班とする臨時政府の結成が宣言された。
 ポーランドでも活発な対ドイツ抵抗闘争が展開されたが、主力が亡命政府系の国内軍であることにその特徴があった。他方、1944年1月には労働者党(共産党)系の全国国民評議会と人民軍が結成され、7月には解放都市ルブリンに国民解放委員会が設置された。ソ連軍がワルシャワに接近した8月に、国内軍は「ワルシャワ蜂起(ほうき)」を起こしたが、失敗に終わった。1945年2月のヤルタ会談で大国間の妥協がなり、6月には労働者党を軸とする挙国一致政権が成立した。チェコスロバキアでは、亡命政権が連合国と協力し、ことにソ連とは1943年末に友好相互援助条約を結んだことが特徴であった。国内でも1944年にスロバキアで反ドイツ蜂起が発生した。亡命政府のベネシュは1945年3月に訪ソし、翌4月にはソ連によって解放されていた東スロバキアのコシツェで各種勢力を結集した新政府が結成され、5月にそれは解放されたプラハに移った。[木戸 蓊・林 忠行]
第二次世界大戦とその結果
枢軸側にたった東欧諸国のうちルーマニアでは、ソ連軍が領内深く進撃した1944年6月に共産党を含む主要政党が国民民主ブロックを結成し、8月23日に国王と協力してアントネスク政権に対するクーデターを実行し、連合国との休戦、ドイツに対する宣戦を発表した。ブルガリアでは、第二次世界大戦前に共産党の勢力が強く、国民が親ソ的であったことなどのため、かなり強力な反ファシズム抵抗闘争が展開されていたが、1944年9月9日に労働者党(共産党)を中心とする祖国戦線がクーデターを起こし、対ドイツ宣戦を行った。ハンガリーでは、政府が動揺したため、1944年3月にドイツの軍事支配のもとに置かれたが、12月にソ連が進出した東部のデブレツェンに反ドイツ派軍人のダールノキ・ミクローシュを首班とする連合政権が誕生し、翌1945年4月にブダペストに移り、権力を掌握した。
 ヨーロッパにおける第二次世界大戦は、1945年5月のドイツの降伏をもって終わったが、戦後の領土面についてみると、もっとも大きな変動を経験したポーランドは、東方で約18万平方キロメートルをソ連に割譲し、他方でより豊かな約10万平方キロメートルをドイツから獲得、国全体が中央部で250キロメートル西方へ移動した。ルーマニアは、トランシルバニアを回復したが、ベッサラビア、北ブコビナのソ連への、また南ドブルジアのブルガリアへの移譲が確定した。チェコスロバキア領であったポトカルパツカー・ルス地方(現在のウクライナのザカルパチア地方)がソ連領になった結果、チェコスロバキア、ハンガリーはソ連と国境を接するに至った。ユーゴスラビアの戦勝の結果、アドリア海沿いの同国領からイタリアの支配がすべて排除されたが、トリエステをめぐる紛争は1954年まで続いた。なお、東欧各地から何百万ものドイツ人が追放された。[木戸 蓊・林 忠行]
人民民主主義の形成
第二次世界大戦後の東欧諸国は、ソ連軍の進攻に伴って大なり小なりソ連の影響下に置かれた。ほとんどの国で各種の政党や政治勢力を含む連合政権が築かれ、「人民民主主義」とよばれる体制が発足した。ソ連を後ろ盾とする共産党の役割は大きかったが、しかし戦争直後にはかなりの多様性がみられた。たとえば、1945年11月にハンガリーで行われた総選挙では、小農業者党が57%の得票をし、同党のティルディが組閣をし、ポーランドでは60万の党員を擁する農民党が労働者党よりもはるかに強力であった。第二次世界大戦前に共産党が合法性を認められ、戦後その権威を高めたチェコスロバキアでも、1946年5月の選挙ではその得票は38%にとどまった。
 共産党は、いくつかの手段で支配権を確立していった。その一つは、自立的な野党を排除する「民主ブロック」の単一候補者名簿による選挙方式であった。もう一つは、内相、法相の地位を確保し、自立的な野党指導者を攻撃、彼らを逮捕ないし亡命に追い込む方式である。他方、同じ時期にすべての国で産業の国有化、経済の計画化が進められた。[木戸 蓊・林 忠行]
東欧のスターリン主義
1947年にアメリカがヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表すると、チェコスロバキアはその受諾を決定し、ポーランドも動揺を示した。ソ連は両国に圧力をかけてその受諾を断念させるとともに、9月に東欧とフランスとイタリアの共産党代表をポーランドに集めてコミンフォルム(共産党および労働者党情報局)を結成し、圏内の結束を図った。1948年に入ると東欧全体に画一的なスターリン主義体制を押し付ける気運が強まった。そのきっかけの一つは、チェコスロバキアでの「二月政変」である。同年2月に、共産党による警察人事介入に抗議して、非共産党閣僚12人が辞表を提出し、政治危機が発生した。共産党は街頭行動を組織して、ベネシュ大統領に閣僚の辞表受理を強要し、結局権力を完全に掌握した。
 もう一つの画一化のきっかけは、コミンフォルムからのユーゴスラビアの排除であった。1948年6月にコミンフォルムは、ユーゴスラビアの内外政策に関する「偏向」を列挙し、それを組織から排除すると発表した。実際は、自らの政権を獲得したとの自負に支えられるチトー政権が、ソ連との国家関係や経済関係において他の東欧諸国のような隷属的態度をとることを拒否し、スターリンの激怒を招いたものであった。
 1948年から各国において、同一の政治・経済措置が施行された。また共産党が社会民主党左派を吸収することにより一党支配体制が完成した。チェコスロバキアのノボトニー、ハンガリーのラーコシなど、すべての国に「小スターリン」が生まれた。異端狩りは党内に及び、1949年から1952年にかけて、ポーランドのゴムウカ(ゴムルカ)党書記長、チェコスロバキアのスラーンスキー党書記長、ハンガリーのライク外相、ブルガリアのコストフ副首相ら多くの指導者が「チトー主義者」として逮捕され、その多くが公開裁判後処刑された。秘密警察による恐怖政治が市民を脅かし、文化的画一性と厳格な検閲制度が支配的となった。過度で無謀な重工業化を目ざす各国の5か年計画の目標がさらに上方修正され、農村の強制的集団化が進み、軽工業や消費財生産は軽視された。[木戸 蓊・林 忠行]
スターリンの死と東欧
1953年3月にスターリンが死去し、マレンコフ政権がソ連で誕生すると、東欧のスターリン主義者は困惑した。同年6月に東ドイツ各地で発生した暴動は、重大な警告となった。7月にはハンガリーで民主化と消費生活の向上を約束するナジ(イムレ・ナジ)が首相に就任し、ルーマニアやブルガリアでも自己批判がなされた。1955年にナジは解任され、東欧全体の改善ムードは消滅したが、ソ連・東欧関係にはスターリン時代に比べて変化が現れた。その一つは関係の多角化である。1949年にコメコン(経済相互援助会議)が結成されていたが、スターリン時代のソ連・東欧の経済関係は2国間の縦割り型のものであった。1954年に不平等関係の象徴であった合弁会社が解散され、コメコンも多角的な生産交流や計画調整の機能を負わされるようになった。1955年には、西ドイツのNATO(ナトー)加盟に対抗してワルシャワ条約機構が結成された。
 もう一つの変化は、ソ連・ユーゴスラビア関係に現れた。ユーゴスラビアを追放したコミンフォルムは、同国に公然たる軍事的圧力を加え、同国民にチトー政権打倒を呼びかけた。チトーは西側に経済的、軍事的援助を求めるとともに、中央集権・官僚主導型のソ連とは違った自主管理社会主義のモデルを模索し始めた。スターリンの死後新しい国際的気運が生まれると、チトーはアジア、アラブ諸国とともに「非同盟」外交政策の開拓に着手した。対ソ連関係も改善され、1955年にベオグラードを訪問したソ連首脳は過去の政策についてわび、国家関係の平等性を認めた。[木戸 蓊・林 忠行]
ポーランド政変とハンガリー事件
1956年2月のソ連第20回党大会でのスターリン批判は、東欧各国に大きな衝撃を与えた。ポーランドでは、スターリン主義への批判が高まるなかで、同年6月にポズナン(ポズナニ)で70人を超える死者と数百人の負傷者を出す労働者の暴動が発生した。改革派の比重が強まっていた党指導部は、暴動の社会的背景を認めて、民主化の推進を約束した。10月の党中央委員会総会は、ソ連の圧力をはねのけて、国民的な人気をもつゴムウカ(ゴムルカ)を党第一書記に選出した。
 ハンガリーでは、事態は違った展開を示した。同国でもペテーフィ・サークルなどの改革派が過去の粛清の責任を追及し始めたが、ラーコシら党幹部は改革を拒否した。1956年10月23日にポーランドとの連帯を示すデモが暴動化し、24日にはソ連軍が鎮圧に出動した。同時にふたたび首相に担ぎ上げられたナジは、複数政党制や集団農場脱退を認め、事態収拾を図った。しかし、いったん撤退を約束したソ連軍が増強の気配をみせたので、ナジ政府は11月1日にワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言した。11月4日にソ連は本格的な軍事介入を開始し、ナジの首相就任のおりに党第一書記に就任していたカーダールJnos Kdr(1912―1989)は、同4日に「革命労農政府」の樹立を宣言した。全国に広がった反乱の動きは、ソ連軍によって強圧的に鎮定され、数千人が命を落とし、約20万人が亡命した。このハンガリー事件は、スターリン主義への反動であると同時に、東欧におけるソ連システムそのものへの挑戦という性格をもつものであった。[木戸 蓊・林 忠行]
東欧諸国の多様化
1960年代に入って表面化した中ソ対立は東欧諸国の行動の自由を拡大した。1960年にアルバニアがソ連離れの姿勢を示したのに対し、ソ連は1961年4月に経済援助打ち切り、専門家総引揚げを通告、同年10月の第22回党大会で公然とアルバニアを非難した。アルバニアはそれに反論し、中国との全面提携の道に進んだ。1962年になると、ソ連が提唱したコメコン統合計画に対し、自国の後進的な位置づけが固定化されるとしてルーマニアが反発した。1964年に自主路線を党声明の形で宣言したルーマニアは、その後、中ソ対立に対して中立の態度をとり、西側諸国と積極的に交流し、東側ブロック内部で独自の要求を行い始めた。
 スターリン主義の責任解明が遅れたチェコスロバキアでは、作家、知識人を中心にノボトニー体制への批判が強まったが、1960年代に入り経済停滞が深刻化したため多くの階層の不満が表面化した。1967年10月に待遇改善を要求した学生を警官が弾圧した事件をきっかけに、ノボトニーは批判の集中砲火を浴び、1968年1月にドプチェクがかわりに党第一書記に選出された。党、国家の主要な役職人事が一新され、事前検閲が廃止され、職場や街頭には自由な言論があふれ、「プラハの春」とよばれる改革の動きが急展開し始めた。「人間の顔をした社会主義」を築くというドプチェク路線が自国や他の東欧諸国に波及するのを恐れたクレムリンは、同1968年8月20日の夜、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアを加えた5か国軍20万によってチェコスロバキアを軍事占領した。欧米諸国や西欧共産党の多くが一斉にソ連を非難し、ユーゴスラビア、ルーマニア、アルバニアもソ連を強く告発、アルバニアはワルシャワ条約機構から脱退した(チェコ事件)。[木戸 蓊・林 忠行]
社会主義体制の動揺
1968年のチェコ事件や、その後の同国で広い範囲で人権が侵害されていることを訴えた「憲章77」の動きは、それまでバルカン諸国に根強かった自立化の波が、ソ連の安全保障にとって致命的な東中欧(東部中欧)諸国に及んできたことを示した。ポーランドでは、食糧品値上げへの反対を叫んで1970年に暴動が、1976年にはストライキが発生し、知識人と労働者の提携が実現した。1980年夏、値上げに抗議してバルト海地方に広がったストを収拾する過程で、自立した労働組合の結成とスト権を認めるという画期的な政労合意が成立し、自主管理労組「連帯」が誕生、組合員は900万を超えたが、その後の政労交渉は泥沼化し、ついに1982年末ヤルゼルスキ(1923― )将軍は戒厳令を敷いた。
 自主路線派のユーゴスラビア、ルーマニアは、1970年代後半以降ポーランドに劣らぬ経済困難に直面した。前者では1971年にクロアチアで、1981年にコソボで、後者ではトランシルバニアで民族主義的な反乱が発生した。西側への巨額の累積債務に苦しむ両国は、エネルギー資源の輸入、製品の輸出の両面でソ連との提携強化の方向を強めていった。それと対照的に、ソ連に忠実であった東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアなどでソ連離れの傾向がみられるようになった。その契機の一つは、世界的な先端技術の時代を迎え、圏内先進国が、コメコン内の技術共同開発を求めるソ連方式では効果が期待できないとして、西側との技術協力をより強く求めるようになったことである。
 もう一つの契機は、米ソによる新型核ミサイルの欧州配備に対して、1983年以降、直接の被害者になる運命の東ドイツ、チェコスロバキア、ブルガリアで対ソ反発の気運が発生したことである。1984年には、ソ連圏の「優等生」といわれたホーネッカー東ドイツ党書記長兼国家評議会議長が、ソ連の圧力をはねのけて西ドイツを訪問しようとし、ついに断念するという事態さえ発生した。[木戸 蓊・林 忠行]
社会主義体制の崩壊と体制転換
1985年にソ連でゴルバチョフが共産党書記長に就任し、東欧諸国の自立化を容認する姿勢をとると、東欧でも改革を志向する動きが加速された。ポーランドでは1983年に戒厳令が解除された後、しだいに共産党政権は経済危機を打開するために自ら経済改革を主導し、1989年に至ると非合法化されていた連帯運動を承認し、円卓会議での合意に基づき同年6月には部分的な自由選挙を実施し、その結果9月には非共産党員のマゾビエツキが首相に就任した。1970年代からハンガリーも段階的な経済改革を試み、1980年代入ると小規模な私営企業を認めるに至っていた。1989年10月にはハンガリーでも複数政党政治が認められ共産党の一党支配は終わりを告げた。こうした動きに連動し、改革に消極的であったほかの東欧諸国でも体制転換が始まった。11月に入ると東ドイツの国境が開放され、ドイツ再統一への動きが始まった。同月にはチェコスロバキアでも民主化運動が高まり、12月にはそれまでの在野勢力と共産党の連立政権がつくられた。また同12月にはブルガリア共産党も党の指導的役割を放棄した。やはり12月にルーマニアでは救国戦線評議会が政権を掌握したが、保守派との間で内戦が生じ、長期にわたって独裁的な支配を続けていたチャウシェスク夫妻は処刑された。各国では憲法が改正され、複数主義に立つ議会政治が導入され、1990年以降に実施された自由選挙の後、本格的な市場経済への転換が開始された。国際的に孤立していたアルバニアでも1990年12月には複数政党制が認められたが、実質的な政権交代は1992年まで待たねばならなかった。
 ユーゴスラビアでは1980年のチトーの死後、大統領の輪番制が採用されていたが、1987年にセルビアでミロシェビッチが幹部会議長に就任し、連邦権限の強化を図ると、しだいに連邦を構成する共和国間の対立が激化し始めた。1990年1月に共産主義者同盟が事実上崩壊し、1991年6月にはスロベニアとクロアチアが独立を宣言した。その後にマケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言し、ユーゴスラビア連邦は崩壊した。残されたセルビアとモンテネグロは新ユーゴスラビア連邦(2003年に国名を「セルビア・モンテネグロ」へと変更、2006年にセルビアとモンテネグロはそれぞれ独立国家となる)を結成した。クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が継続し、20万人の死者と350万人の難民が出た。1998年にクロアチアの内戦は収束したが、なお、内戦で生じたセルビア人難民の帰国問題が課題として残っている。ボスニア・ヘルツェゴビナでの内戦では1995年のNATO軍によるセルビア人勢力に対する空爆を経て、ようやく同年11月に和平協定(デイトン合意)が締結され、ボスニア・ヘルツェゴビナは、クロアチア人、ムスリム(イスラム教徒)からなるボスニア連邦とセルビア人のスルプスカ共和国からなる共同国家となり、3勢力から選出された代表による大統領評議会の下に中央政府がつくられた。さらにコソボではアルバニア人勢力とセルビア人勢力の対立が継続し、セルビアの軍事行動を理由に1999年にはNATO軍による空爆が行われ、その後、コソボは国連の暫定統治下に置かれたが、2002年3月には暫定自治政府がつくられ、そこへの権限委譲が始まった。クロアチアでは2000年に、セルビアでは2001年に西欧志向の強い政権が誕生し、国際社会への復帰が進んだが、なお戦争の傷跡は深く、その修復には時間を要する。
 他方、1989年末から1990年代初めの時期、東欧のもうひとつの連邦国家であったチェコスロバキアでも連邦を構成するチェコとスロバキアの両共和国間の対立は妥協による解決が不可能となり、両共和国の合意に基づき平和裏に、1992年末をもって連邦は解体され、両共和国はそれぞれ独立国となった。
 共産党体制崩壊後の東欧諸国は、北大西洋条約機構(NATO)とヨーロッパ連合(EU)への加盟を目ざし、1999年にはポーランド、チェコ、ハンガリーがNATOに加盟、2002年にはスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、スロベニアがバルト三国とともにNATO加盟招請を受け、2004年3月に正式加盟した。EUも1993年に東方拡大の意思表示を行い、2004年にポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニアがバルト三国などとともに正式加盟を果たした。経済改革の遅れなどからブルガリアとルーマニアのEU加盟は先送りにされていたが、2006年9月に欧州委員会は、両国について2007年1月のEU正式加盟を認めた。なお、2004年スロベニアのNATOおよびEU加盟は、旧ユーゴスラビア諸国では初めての加盟となった。クロアチアは、2003年2月にEUへの加盟申請を行い、2004年6月に正式加盟候補国となり、2013年7月、正式加盟を認められた。マケドニアは、2005年12月正式な加盟候補国と認められた。ボスニア・ヘルツェゴビナ、そして2006年に独立国となったセルビアとモンテネグロ、いずれもEU加盟を最優先事項としている。[林 忠行]

東欧史研究の動向


 欧米における東欧史の研究は、第二次世界大戦前には、シートン・ワトスン父子(父Robert W. Seton-Watson、子Hugh Seton-Watson)などの優れた研究者や王立国際問題研究所のような充実した研究機関をもつイギリスがその中心であったが、第二次世界大戦後、研究の主力はアメリカに移り、1950年代以降ハーバード大学、インディアナ大学、カリフォルニア大学、フロリダ州立大学、プレーガー社などが競い合ってスラブ研究ないしは東欧研究の叢書(そうしょ)を刊行した。ただ、ことに戦後初期の研究は「冷戦」の雰囲気を反映したものも少なくなかった。東欧現地の研究は、戦前はルーマニアのヨルガNicolae Iorga(1871―1940)に代表されるように、自国の過去の栄光を立証することに力点が置かれ、戦後は労働運動や共産党の活動の成果を発掘することに主力が注がれる傾向があった。また、欧米の研究が、東欧における民族の覚醒(かくせい)や近代化を中・西欧からの影響の結果とみなしがちであるのに対して、現地でのそれは、戦前も戦後も、内発的契機をことさらに誇張する傾きを示した。1960年代以降、欧米ではより実証的な研究が増え、1970年代にコロンビア大学、ワシントン大学で刊行され始めた叢書にそれが反映された。社会主義時代の東欧現地の史学では、イデオロギー的制約があったが、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラビアなどでは相対的に自由な研究態度がみられた。
 1989年以後の体制変動によって、東欧史研究も大きな変容を遂げた。東欧諸国での研究は社会主義イデオロギーの束縛から解放され、西側における方法論が積極的に導入され、活発な論争も展開されるようになった。西側研究者との交流と共同研究も盛んになった。ただし、各国の政治情勢を反映して、自国史の叙述に過度なナショナリズムの傾向がみられる場合もある。体制転換以前にはごく限られた研究者のみが文書館での史料調査を許されたが、現在は外国人を含むあらゆる研究者にも文書館が広く開かれたため、研究の実証性が格段に高まったといえる。
 わが国では、近代化のモデルとされた西欧への関心の高さとは対照的に、東欧は無視された地域であり、第二次世界大戦前には、長瀬鳳輔(ほうすけ)、信夫淳平(しのぶじゅんぺい)、芦田均(あしだひとし)のバルカンに関する書物が目だつ程度であった。戦後、ことに1960年代に入って客観的な東欧史研究がようやく開始され、1970年代以降現地に留学する若い研究者が急増した。1975年(昭和50)にこれらの人が中心になり東欧史研究会が設立され、同研究会が1978年に創刊した雑誌『東欧史研究』は、わが国の東欧史研究の重要な拠り所となっている。わが国の研究も、東欧での体制変動後、おもに現地の文書館での史料調査に依拠する研究が主流をなすに至り、その点でも東欧史研究は、ほかの地域史研究と肩を並べる水準になりつつある。[木戸 蓊・林 忠行]
『Z・K・ブジェジンスキー著、山口房雄訳『ソビエト・ブロック――その統一と対立の歴史』(1964・弘文堂) ▽矢田俊隆著『ハプスブルク帝国史研究――中欧多民族国家の解体過程』(1977・岩波書店) ▽矢田俊隆著『ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史』(『世界現代史26』1978・山川出版社) ▽木戸蓊著『バルカン現代史』(『世界現代史24』1977・山川出版社) ▽木戸蓊著『東欧の政治と国際関係』(1982・有斐閣) ▽鳥山成人著『ビザンツと東欧世界』(『世界の歴史19』1978・講談社) ▽F・フェイト著、熊田亨訳『スターリン以後の東欧』(1978・岩波書店) ▽F・フェイト著、熊田亨訳『スターリン時代の東欧』(1979・岩波書店) ▽P・F・シュガー、I・J・レデラー編、東欧史研究会訳『東欧のナショナリズム――歴史と現在』(1981・刀水書房) ▽南塚信吾著『東欧経済史研究序説』(1985・多賀出版) ▽南塚信吾編『東欧の民族と文化』(『叢書東欧1』1989・彩流社) ▽南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』(『新版・世界各国史19』1999・山川出版社) ▽森安達也編『スラヴ民族と東欧ロシア』(『民族の世界史10』1986・山川出版社) ▽R・オーキー著、越村勲・田中一生・南塚信吾編訳『東欧近代史』(1987・勁草書房) ▽森安達也・南塚信吾著『東ヨーロッパ』(『地域からの世界史12』1993・朝日新聞社) ▽H・ボグダン著、高井道夫訳『東欧の歴史』(1993・中央公論社) ▽D・ジョルジェヴィチ、S・フィシャー・ガラティ著、佐原徹哉訳『バルカン近代史』(1994・刀水書房) ▽J・ロスチャイルド著、大津留厚監訳『大戦間期の東欧』(1994・刀水書房) ▽J・ロスチャイルド著、羽場久子・水谷驍訳『現代東欧史』(1999・共同通信社) ▽柴宜弘編『バルカン史』(『新版・世界各国史18』1998・山川出版社) ▽伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』(『新版・世界各国史20』1998・山川出版社) ▽佐原徹哉著『近代バルカン都市社会史――多元主義空間における宗教とエスニシティ』(2003・刀水書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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