モーロ
もーろ
Aldo Moro
(1916―1978)
イタリアの政治家。南部(レッチェ市)の知識階級の出身。第二次世界大戦後キリスト教民主党に入党、1946年制憲議会議員、1948年以降代議士。第五次デ・ガスペリ内閣の外務次官(1948~1950)、キリスト教民主党下院院内総務(1953~1955)、セーニ、ゾーリ、第二次ファンファーニの三中道内閣の下で法相(1955~1957)、文相(1957~1959)を歴任。党幹事長(1959~1963)として第四次ファンファーニ中道左派内閣の成立に尽力し、党の左展開政策の立役者となった。1963年末から1968年にかけて社会党の閣内外の協力による中道左派内閣を三度組織。1969年から1974年まで第二次アンドレオッティ内閣(1972~1973)以外のすべての内閣で外相の地位を保持した。1974年から1976年にかけて第四次、第五次内閣を連続担当したが、この両政府には共産党が閣外から協力した。その後、党内外の危機の進行のなかで党総裁に就任したモーロは、歴史的妥協路線を掲げる共産党との協調のうえに挙国一致体制を築こうと奔走し、同党の信任に基づく連立政府の成立にこぎ着けた。1978年3月16日、この体制に挑戦する極左集団「赤い旅団」に誘拐され、55日後の5月9日ローマの中心街で遺体となって発見された。
[重岡保郎]
『L・シャーシャ著、千種堅訳『モロ事件』(1979・新潮社)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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モーロ
Aldo Moro
生没年:1916-78
イタリアの政治家。ファシズム時代はカトリック大学生連盟会長として活躍し,1941年以来ローマ大学で法学の教鞭をとる。46年制憲議会に当選,死ぬまでキリスト教民主党(DC)代議士。ファンファーニらとともにデ・ガスペリ以後のDCを率い,59年書記長となった。以後社会党との連立に尽力,63年首相となって初の中道左派政権樹立に成功した。しかし,この路線もなんら実質的な改革を実現することなく挫折,モーロは68年退陣した。その後外相を務め,党内では孤立していたが,69年以降の政治経済危機のなかで首相に返り咲いた(1974-76)。おりから共産党はDCとの〈歴史的妥協〉を唱えており,その最も信頼のおける対話者がモーロだった。そして共産党が初めてDC政権(第4次アンドレオッティ政権)を信任することになっていた78年3月16日,彼は極左集団〈赤い旅団〉に誘拐され,5月9日殺害された。
執筆者:村上 信一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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モーロ
Molo, Walter von
[生]1880
[没]1958
オーストリアの小説家。ウィーン工科大学に学び技師となったのち文学へ入る。初め表現主義的作風を示したが,まもなく歴史小説に筆を染め,ルター,シラー,クライストなどを取上げた。主著『ドイツなきドイツ人』 Ein Deutscher ohne Deutschland (1931) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のモーロの言及
【モル・ファン・ダスホルスト】より
…鋭い心理描写を特徴とする,強烈なレアリスムによる重厚な作風は,[サンチェス・コエリョ]に影響を与え,スペイン肖像画の基礎を築いた。スペイン名はモロAntonio Moro。【神吉 敬三】。…
※「モーロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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