日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベルリングエル」の意味・わかりやすい解説
ベルリングエル
べるりんぐえる
Enrico Berlinguer
(1922―1984)
イタリアの政治家、共産党指導者。サルデーニャ島のサッサリの名家に生まれ、元代議士で反ファシストの父と、とりわけ叔父の影響で高校時代から社会的関心をもち、サッサリ大学在学中の1943年に共産党に入党。翌1944年サッサリにおける反ファシズム暴動の首謀者として逮捕、投獄された。釈放後トリアッティに師事し、その直系の弟子として中間派幹部の道を歩むことになる。1945年末の第5回党大会で中央委員に抜擢(ばってき)され、1948年の第6回大会では指導部員に推挙され、一時期その任にあった。最初の党活動はおもに青年運動であって、共産主義青年同盟書記長(1949~1956)、世界民主青年連盟議長(1950~1952)を務めた。1957年にサルデーニャ州党委員会の副書記になり、翌1958年、中央委員会の書記局に移り、1960年の第9回大会で指導部員に復帰し、1969年の第12回大会でロンゴ書記長の下で副書記長となり、1972年の第13回大会以降書記長を務めた。1973年秋チリ反革命の教訓に学んで、左翼勢力とカトリック勢力の提携を求める歴史的妥協路線を提唱し、党内外の反響をよんだ。またチェコスロバキアへのソ連の軍事介入(1968)に抗議しただけでなく、翌1969年のモスクワ共産党会議で、主権の尊重と他国への内政不干渉の原則を主張し、ソ連共産党からの自主独立を求めるユーロコミュニズムの先駆けとなった。
彼の提案は1970年代には国民に受け入れられ、1976年の総選挙では党の得票率は34.4%に達し、翌1977年マドリードにおけるフランス・イタリア・スペイン三国共産党の共同声明も複数政党制などとともに彼の主張を受け入れた。しかし1970年代末から1980年代初めにかけて彼を支えてきた内外の運動と状況が後退し、1983年の第16回大会では歴史的妥協路線は、社会党との左翼連合を目ざす民主的選択の路線に修正を余儀なくされた。それでも翌1984年の死に至るまで彼はユーロコミュニズムの旗手として声望を保ち続けた。
[重岡保郎]
『エンリコ・ベルリングェル著、大津真作訳『先進国革命と歴史的妥協』(1977・合同出版)』▽『山崎功著『エンリーコ・ベルリングェール』(1980・読売新聞社)』