改訂新版 世界大百科事典 「やつし」の意味・わかりやすい解説
やつし
動詞〈やつす〉の連用形の名詞化したことば。〈やつす〉の原義は,見すぼらしい様にする,姿を変えることで,そこから,省略する,めかす,身を落とすなどの義を派生した。この〈やつす〉行為もしくは状態に与えられた最古のイメージは,たとえば,〈青草を結束ひて,笠蓑として,宿を衆神に乞ふ〉(《日本書紀》)素戔嗚(すさのお)尊の姿であろう。折口信夫は,〈笠を頂き簑を纏(まと)ふ事が,人格を離れて神格に入る手段であったと見るべき痕跡がある〉(《国文学の発生・第三稿》)と説き,蓑笠に姿を変えて人界を訪れるまれびとや,漂泊する神,神人の存在を指摘している。このようなイメージの流れを汲んで,《源氏物語》などの,高貴な人物が地位を逐われて流浪する,〈貴種流離譚〉と呼ばれる文学類型が生み出された。そして,その延長線上に,歌舞伎の〈やつし〉が成立する。
やつした人間の活躍する諸状況を表現パターンとする〈やつし事〉や,その状況を担って生きる役柄〈やつし方〉の基礎が確立されたのは,延宝年間(1673-81)の上方歌舞伎で,それには,初世嵐三右衛門が大きな役割を果たした。以後,やつしは,元禄歌舞伎のお家狂言の中で発達する。やつしには,〈方便(てだて)にいやしき業をするか世におちぶれてするか〉(《舞曲扇林》)の二つの設定があり,いずれにしても,〈さすが古へのかたぎうせず〉(《役者舞扇子》)という,二重構造の中に生きる人間の表現に役の性根が求められた。具体的には,髪結い,畳刺し,桶屋,下男,馬子,下女,湯女,小原女などの役が挙げられ,庶民的人間像の描写を必要とした。しかし,性根を外れて,〈よくにするほどあしかるべし〉(《舞曲扇林》)といわれ,〈姿のいやしい,じつごと〉(《役者口三味線》)との違いを強調するために,置かれた深刻な状況を越える鷹揚さや軽味,おかし味が,演技に要求された。今日も,《廓文章(くるわぶんしよう)》の伊左衛門や《嫗山姥(こもちやまんば)》の煙草屋源七などにその伝統をみることができる。
→変装
執筆者:今尾 哲也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報