国文学者、民俗学者、歌人。筆名釈迢空(しゃくちょうくう)。明治20年2月11日大阪府西成(にしなり)郡木津村(現、大阪市浪速(なにわ)区)に生まれる。生家は医者と生薬(きぐすり)・雑貨を売る商家を兼ねていた。1905年(明治38)天王寺中学を卒業し、国学院大学に進んだ。中学生のころから古典を精読し、友人の武田祐吉(たけだゆうきち)らとともに短歌創作に励む。国学院では国学者三矢重松(みつやしげまつ)から深い恩顧を受けた。卒業して大阪の今宮中学の教員となったが、2年余で辞して上京、国文学の研究と短歌の創作に情熱を注ぐ。歌人島木赤彦(しまきあかひこ)を知って『アララギ』に入会。また民俗学者柳田国男(やなぎたくにお)を知って、深い影響を受け、進むべき学の方途をみいだした。1919年(大正8)国学院大学講師となり、のち教授として終生国学院の教職にあった。1920年中部・東海地方の山間部を民俗採訪のため旅行、1921年『アララギ』を退会、この年と1923年の二度にわたって沖縄に民俗採訪旅行。折口の古代研究の学は、この時期の採訪旅行によって開眼した。
1923年慶応義塾大学講師となり、のち教授として没年まで勤続する。1924年、前年に没した三矢重松の「源氏物語全講会」を継承して開講、またこの年、古泉千樫(こいずみちかし)、北原白秋(きたはらはくしゅう)らの短歌雑誌『日光』に同人として参加。1926年長野県・愛知県山間部に花祭、雪祭を採訪調査。1930年(昭和5)とその翌年、東北地方各地を旅する。1932年文学博士となる。1944年門弟藤井春洋(ふじいはるみ)(1907―1945)を養嗣子(ようしし)としたが、春洋は翌年硫黄(いおう)島で戦死。1948年(昭和23)第1回日本学術会議会員に選ばれ、翌1949年歌会始選者となる。昭和28年9月3日、胃がんによって死去。66歳。
その学風は、国学の研究法に新しく民俗学の研究法をあわせ、さらに独自の個性による実感の学としての要素を加えて、古代から現代に至る日本人の心の伝承をとらえようとしたもので、研究の領域は国文学、民俗学をはじめ、神道学、国語学、芸能史の面に及んでいる。日本人の神観念のうえに外来神の要素をみいだし、それを「まれびと(まろうど)」として位置づけ、さらに「まれびと信仰」に基づく日本文学の発生論を示した。おもな著書に『古代研究』3巻(1929~1930)、『日本文学の発生序説』(1951)、『近代短歌』(1940)、『日本芸能史六講』(1944)、『口訳万葉集』(1916、1917)がある。
創作の面も多岐にわたっているが、生涯の情熱を注いだのは短歌で、民俗学者として旅中に得た感動を、沈潜したしらべにのせて歌った。「歳(とし)深き山の かそけさ。人をりて、まれにもの言ふ 声きこえつゝ」。歌に句読点を打ったり、歌のほろびと次の詩型を予感した評論『歌の円寂(えんじゃく)する時』を書いて、歌壇に清新の気を与えた。歌集に『海やまのあひだ』(1925)、『春のことぶれ』(1930)、『水の上』(1948)、『遠やまひこ』(1948)、『倭(やまと)をぐな』(1955)、詩集に『古代感愛集』(1952。芸術院賞受賞)、『近代悲傷集』(1952)、『現代襤褸(らんる)集』(1956)、小説に『死者の書』(1939)がある。
[岡野弘彦 2019年2月18日]
『『折口信夫全集』37巻・別巻3(1965~2002・中央公論社、中央公論新社)』▽『『折口信夫全集 ノート編』18巻・別巻1・追補5巻(1970~1988・中央公論社)』▽『池田弥三郎著『日本民俗文化大系2 折口信夫』(1978・講談社)』▽『加藤守雄著『折口信夫伝――釈迢空の形成』(1979・角川書店)』▽『藤井貞和著『釈迢空』(1974・国文社/講談社学術文庫)』▽『梶木剛著『折口信夫の世界』(1982・砂子屋書房)』▽『岡野弘彦著『折口信夫の晩年』(1969・中央公論社/中公文庫/修正版・2017・慶応義塾大学出版会)』
国文学者,民俗学者,歌人,詩人。大阪生れ。歌人,詩人としては釈迢空(しやくちようくう)と名のった。信夫の手がけた領域は多方面にわたって,そのいずれも独創的な内容を持ち,民俗学的国文学,日本芸能史論の創始者であって,成し遂げた業績は後に〈折口学〉と世間から称される学問体系を作っている。
少年期から短歌に親しみ,《万葉集》を読破していた信夫は,国学院大学在学中から服部躬治や東京根岸短歌会の歌人を知り,1917年に《アララギ》同人になった。その間,〈たびごゝろもろくなり来ぬ。志摩のはて 安乗(あのり)の崎に,灯(ひ)の明り見ゆ〉(《海やまのあひだ》)という作歌を生んだ12年の志摩・熊野の旅があり,また20年の中部地方横断の旅,21,23年の南西諸島や壱岐の旅は〈ひそけさ〉を基調とする迢空短歌を確立させ,〈葛の花 踏みしだかれて,色あたらし。この山道を行きし人あり〉を含む歌集《海やまのあひだ》(1925)に結実する。《アララギ》と別れた迢空は24年北原白秋,古泉千樫らと《日光》同人になり,さらに鳥船社を結成して活躍を続け,太平洋戦争に養子折口春洋(はるみ)を硫黄島でうしなう悲傷を歌った《倭(やまと)をぐな》(死後出版,1955)まで,旺盛な作歌意欲を示した。句読点をほどこすなど,短歌形成とそれに内在する律動との関係をつきつめ,そればかりでなく長歌や自由律の詩作にも筆を染めて,《古代感愛(かんない)集》(1947,これによって翌年芸術院賞受賞)など3冊の詩集を編んでいる。
信夫の学問は,以上のような創作活動と深くかかわっていて,独特な用語を駆使し,ときに飛躍のある晦渋な論文が生み出されるのはその創作者的資質によろう。独特な用語とは,例えば〈貴種流離譚〉がある。物語に出てくる主人公たちは高貴な出身であるが,身をやつして他国へさすらってゆく。そのような物語のパターンが,《源氏物語》にもあるが,古い神話や基層社会の芸能者の持ち歩いた説経その他にも広く見られる。そのことから,〈貴種流離譚〉は,神々を守って漂泊した人々の,また賤しめられていた芸能者たちのいだいていた世界であったことが考えられる。信夫は日本文学の流れの基層をそのような担い手たちの唱導の歴史であると見た。たしかに,文献・資料をおぎなうためには,独特な用語と詩的直観とによって論証を支えなければならなかったわけだが,文献・資料そのものは眼光紙背に徹するような読みによって支えられている。さらに,文献や資料を実感的に把握するために,民俗学者としての信夫の知識や民俗的現場の実感が動員せられ,ついに民俗学的国文学といわれる〈折口学〉が打ちたてられるにいたるのである。主著《古代研究》3巻は,1929-30年に,〈国文学篇〉,〈民俗学篇〉(2冊)が相次いで出された。〈国文学篇〉のなかの主論文〈国文学の発生〉は,神々と古代の村落共同体との交渉の中に文学の発生をきわめようとして,〈まれびと〉=神の来訪とその神授の呪言(じゆごん)なるものをそこに見いだしている。〈民俗学篇〉は神々の憑代(よりしろ)の問題や,琉球の宗教形態について多く筆をついやしているが,信夫が生涯の師とした柳田国男の民俗学とはかなり方法を異にしている。信夫にとって民俗は始原的な古代の残存をそこに見ようとするものなのである。この〈国文学篇〉のなかの一部分をなす《万葉集》の研究によって,32年,文学博士。
中学教員時代,母校国学院大学の教授,また慶応義塾大学の教授としてのあいだ,信夫は身を投げうって多くの教え子を育てたすぐれた教育者であったが,自身は生涯独身を保ち,〈あゝひとり 我は苦しむ。種々無限(しゆじゆむげん)清らを尽す 我が望みゆゑ〉(《倭をぐな》)という晩年の作歌がある。特異な小説《死者の書》(1943)は学問の創作化であるとともに,信夫の同性への愛の苦しみ,悲しさもひそかに込められているといわれる。没後,全集および全集ノート編が編まれた。
→民俗学
執筆者:藤井 貞和
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大正・昭和期の国文学者,民俗学者,歌人,詩人 国学院大学教授;慶応義塾大学教授。
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1887.2.11~1953.9.3
大正・昭和期の国文学者・民俗学者・歌人・詩人。別名釈迢空(しゃくちょうくう)。大阪府出身。国学院大学卒。大学在学中に根岸派の歌会に参加。1910年(明治43)大学卒業後,帰阪して中学校教員となる。15年(大正4)雑誌「郷土研究」に「髯籠(ひげこ)の話」を発表。柳田国男に私淑し,民俗学研究に着手。歌集「海やまのあひだ」「春のことぶれ」では1字空けや句読点使用などによりつつ,独自の歌境を築いた。民俗学研究では詩人的直観にもとづく「まれびと」などの概念をもとに,文学や芸能の発生を考究。研究と創作の接点に小説「死者の書」がうまれた。「折口信夫全集」全31巻・別巻1。
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… 国文学関係では《古事記》等の文献の内部分析が武田祐吉や高木市之助らによって進められ,倉野憲司,西宮一民の注解や土橋寛,益田勝実らの研究,小林芳規らの国語学的成果となって現れている。さらに折口信夫の《古代研究》3巻(1929‐30)は詩的直観力によって古代的世界とじかに交感しようとするものであった。また西郷信綱は人類学等の隣接諸科学の成果を取り入れて,〈作品〉としての《古事記》の文脈を尊重しながら,神話を構造的に読み解いて《古事記の世界》(1967),《古事記研究》(1973),《古事記注釈》(1975‐89)を著した。…
… 他方では,別業と文芸,あるいは研究と創作,のように複領域にわたる仕事をそれぞれ十全にとげたいという考えから,創作などにペンネームをつらぬく作家たちが登場した。医学者森林太郎が文学活動では鷗外でありつづけたのは初期の例であり,大正期以降には木下杢太郎(詩・小説等)=太田正雄(医師)や釈迢空(短歌)=折口信夫(民俗学者)がおり,現代では辻井喬(詩人)=堤清二(実業家)などをあげることができる。 文芸の資本主義化が成熟すると,今度は2人の作家が一つのペンネームで発表を続けたり(アメリカ推理作家E.クイーン),一作家が二つのペンネームで異なる作風のシリーズを続けたり(イギリス推理作家ディクソン・カー=カーター・ディクソンなど)する多作家が現れる。…
…(10)童(わらべ)歌 子守歌(眠らせ歌,遊ばせ歌),手鞠歌,お手玉歌など(以上《民謡覚書》)。この柳田分類に対して,折口信夫は,柳田のいう民謡を(1)童謡,(2)季節謡,(3)労働謡に分類する以外に,(4)芸謡の存在を挙げている。芸謡は芸人歌のことで,日本では各時代を通じて祝(ほかい)びと,聖(ひじり),山伏,座頭(ざとう),瞽女(ごぜ),遊女などのように,定まった舞台をもたず,漂泊の生活の中で民衆と接触しつつ技芸を各地に散布した人々があり,この種の遊芸者の活躍で華やかな歌が各地に咲き,また土地の素朴な労働の歌が洗練された三味線歌に変化することもあった。…
…キリスト教のマリア崇拝も以上のような背景を抜きにしてはありえなかったものと思われる。 日本においては,折口信夫による常世国(とこよのくに)のまれびと神来訪とその歓待につくす処女の役割に関する民俗学的研究(《常世及びまれびと》)が,古代における女神信仰の原初的形態を示唆する興味深い資料を提供している。石田英一郎は《桃太郎の母》で,こうした豊かな民俗資料を手がかりに,古代日本人の原初的母神信仰を,古代地中海世界における母権社会との関連の中で比較文化史的に追究している。…
…〈御神事〉とか〈田楽祭〉と呼ばれるように小正月にその年の豊作を祈願する祭りで,雪を豊年の吉兆とみて神前に供え,雪を投げる習慣などがある。1926年に折口信夫(おりくちしのぶ)がこれを見て〈雪祭だね〉と感想を述べたことから一般に雪祭と呼ばれるようになった。伊豆神社は室町中期に伊豆から移住した伊東氏がまつったものといい,祭りは領主の関氏が郷里,伊勢の〈田の神祭〉を模して1454年(享徳3)に始めたと伝える。…
※「折口信夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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