日本大百科全書(ニッポニカ) 「ユーゴスラビア文学」の意味・わかりやすい解説
ユーゴスラビア文学
ゆーごすらびあぶんがく
ユーゴスラビアの文学は、過去1000年にわたる民族、言語、文化伝統の相違に応じて、セルビア文学、クロアチア文学、スロベニア文学、マケドニア文学に分かれる。ここでいうユーゴスラビア文学とは、第一次、第二次の両世界大戦間の王制ユーゴスラビア(1918~1941)および第二次世界大戦後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国(1945~1991)の時代に、南スラブ民族の統一体という理念のもとに「ユーゴスラビア」とよばれた連合的な多民族国家を形成していた各民族の文学をさす。セルビアとモンテネグロの二つの共和国からなる1992年以降のユーゴスラビア(2003~2006年は「セルビア・モンテネグロ」)の文学はここには含まれない。
セルビア人とクロアチア人は一つの共通の標準的文章語セルビア・クロアチア語をもつが、前者は普通キリル文字を、後者はつねにラテン文字を使用する。スロベニア人は、セルビア・クロアチア語に近いが、すでに異なる言語であるスロベニア語を国語とし、ラテン文字を用いる。マケドニア語はもっとも新しく公認された国語であり、それゆえマケドニア文学も新しく、発達の途上にある。
セルビア文学はその発達のもっとも早い時期においては古代教会スラブ語の文書作成の一部を担い、12世紀末から15世紀中葉にかけてビザンティン宗教文学の圏内において順調な発達を遂げた。しかしトルコ占領下(1459~1866)のセルビアにおいては文学は衰退した。一方、トルコの侵略が及ばなかったダルマチア地方においては、15世紀から17世紀にかけて、ドゥブロブニク(旧名ラグーザ)を中心に、イタリア・ルネサンス文化を摂取しつつラグーザ文学が発達した。詩人グンドゥリッチはその最高峰に位する。このルネサンス文学の伝統は後代のクロアチア文学に継承された。
18世紀後半になると、オブラドビッチの啓蒙(けいもう)活動によってセルビアに文学復興の兆しがみえ、19世紀に入ると、ロマン主義が進歩思想として各地において民族的、文化的改革運動と結び付いた。セルビアのカラジッチ、クロアチアのガイ、スロベニアのコピータルJernej Kopitar(1780―1844)は同一の精神にたってそれぞれの国語の標準化を志向し、辞典、文典の編纂(へんさん)や正書法の改正を試みた。モンテネグロのニェゴシュ、クロアチアのマジュラニッチ、スロベニアのプレシェレンらロマン派詩人の活躍によって各国民文学は純化され、近代文学が開花した。19世紀後半には各地の主要な文芸思潮はリアリズムに向かい、作家たちは社会問題に観察の目を向けた。セルビアのラザレービッチLaza Lazarević(1851―1891)、マターブリSimo Matavulj(1852―1908)、クロアチアのシェノアAugust Šenoa(1838―1881)、クミチッチ、スロベニアのケルスニクJanko Kersnik(1852―1897)らがその代表。20世紀初頭は西欧モダニズムのさまざまな傾向が現れ、この潮流のなかから、スロベニアのツァンカル、ジュパンチッチ、クロアチアのナゾール、ボイノービチらの優れた詩人、小説家、劇作家が輩出した。若き日に西欧モダニズムの洗礼を受け、二度の世界大戦を経て精神的に大成した作家に、クロアチアのナゾール、クルレジャ、ボスニアのアンドリッチ、セルビアのツルニャンスキーMiloš Crnjanski(1893―1977)らがいる。
[栗原成郎]
第二次世界大戦後の状況
第二次世界大戦後のユーゴスラビア文学は、類型的な共通性をもち、どの地域の文学も実質的には同一の発達過程をたどった。戦争、民族解放運動、社会主義的文化改革の主題は長らく主流を占め、独自の様式を発展させたが、1950年代に入ると、表現の画一性に対する反動が強まる。西ヨーロッパの文学潮流に歩調をあわせるように、さまざまな主題のもとに、内的独白、心理分析、「意識の流れ」などの新手法を用いる作家たちが登場し、文学は政治的拘束を受けることなく自由な展開をみせた。
「ユーゴスラビア文学」という概念を支えていたものの一つに、「セルビア・クロアチア語」とよばれた標準文語の理念があった。すなわち、セルビア語とクロアチア語とは、方言的差異、文化伝統のもたらした語彙(ごい)や表現法の相違を含みながらも、構造的には同一の言語であり、ユーゴスラビアの文化を表現するにはもっともふさわしい文語であるとする共通の認識が、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、ボスニア人の間にほぼ100年間保たれていたのである。一つの標準文語を、民族的出自を異にする作家たちが共同で育ててゆこうとする理念が、19世紀後半から20世紀後半にかけてのユーゴスラビア文学の発展を促した。ボスニア出身のアンドリッチ、セリモビッチ、ディズダルMak Dizdar(1917―1971)などの作家・詩人の作品が、ボスニアのイスラム文化の歴史に材をとりながらも、ボスニアの地域性を超えた普遍的文学として広まったのは、この標準文語と文学との緊密な相関性に起因していた。
1992年のユーゴスラビア連邦解体に伴い、この一つの標準文語を共有するという理念も崩壊した。クロアチア人はクロアチア語をセルビア語とはまったく別の言語と考え、文語として新たな涵養(かんよう)を図り、ボスニア・ムスリム人は「ボスニア語」の存在を主張し彼らの標準語の確立を急いでいる。旧ユーゴスラビアを構成していた各民族は、固有の文化的伝統をより強く意識しつつ、より普遍的な世界文学の創造に向っているといえよう。
[栗原成郎]
『栗原成郎他訳『ユーゴスラビアの民話』(Ⅰ)(Ⅱ)(1980・恒文社)』