日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラテラン公会議」の意味・わかりやすい解説
ラテラン公会議
らてらんこうかいぎ
Lateran Councils
中世後半の教皇権興隆期に四度、またルネサンス期に一度、ローマのラテラノ大聖堂で開催されたカトリック教会の公会議(第9~12回、18回)の総称。ラテラノ公会議ともいう。会議場名のほかとくに共通性はない。(1)第9回 1123年、教皇カリクストゥス2世Calixtus Ⅱ(在位1119~24)が招集した。聖職叙任権闘争の結末としてのウォルムス協約が確認された。西欧で開催された最初の公会議で、ローマがキリスト教世界の中心としての地歩を固めた。(2)第10回 1139年、教皇インノケンティウス2世Innocentius Ⅱ(在位1130~43)の招集。教会改革運動を促進させ、対立教皇(アナクレトゥス2世)の排斥、ブレシアのアルノルド、ブリュイのピエールらの異端説の禁止を決議した。全西欧からの参加者が多数に上り、完全prenaria公会議とよばれた。(3)第11回 1179年、教皇アレクサンデル3世Alexander Ⅲ(在位1159~81)の招集。ドイツ皇帝フリードリヒ1世が擁立した対立教皇(カリクストゥス3世)の罷免後成立したベネチアの和議(1177)を確認し、枢機卿(すうききょう)会の3分の2の多数決による教皇選挙の手続を定めた。アルビジョア派、ワルド派など異端派の抑圧策が強化され、イスラム教徒との貿易制限が論議された。(4)第12回 1215年、教皇インノケンティウス3世Innocentius Ⅲ(在位1198~1216)の招集。教皇権の絶頂期とされる時代の象徴的公会議で、神学、典礼、教会法、聖職者教育、信徒生活の全般にわたり、革新的かつ現実的な指針が示された。聖体秘蹟(ひせき)の神学に「全質変化」transsubstantiatioが説かれ、信徒の年ごとの告解と聖体拝領が義務づけられ、婚姻秘蹟の厳格な規定がつくられた。また聖地回復のために第4回十字軍が勧説され、アルビジョア十字軍派遣も続けられた。(5)第18回 1512~17年、教皇ユリウス2世Julius Ⅱ(在位1503~13)が招集し、ついでレオ10世Leo X(在位1513~21)が継続した。公会議首位説にたつピサ分離会議(1511~12)に対抗し、宗教改革とも一線を画して多彩な改革案が提起されたが、教皇権が公会議に優先することを顕示したほかは、ボルジャ家出身の教皇としての限界もあって成果は不徹底に終わった。
[橋口倫介]