ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リトルロックの9人」の意味・わかりやすい解説
リトルロックの9人
リトルロックのきゅうにん
Little Rock Nine
1957年の夏,白人の生徒しかいなかったリトルロックセントラル高校に 9人がアフリカ系アメリカ人として初めて入学した。この入学の試みは,1954年,アメリカ合衆国連邦最高裁判所がブラウン対トピカ教育委員会裁判において,人種隔離の教育は違憲であるとの判決をくだしたことに始まる。登校初日,リトルロック教育委員会は 9人に出席するなと警告した。2日目,9人は支援者たちに付き添われて学校に着いたが,門前で白人たちから罵声を浴び,投石されたうえ殺すと脅された。加えて,アーカンソー州のオーバル・ユージーン・ファーバス知事によって派遣された州兵 270人が学校の入口を封鎖。ファーバス知事は黒人との融合に反対を示し,人種差別廃止の必要を命じた連邦政府の決定に逆らう意思を表明した。
この事件は,連邦政府と州政府の対立だけでなく,アメリカの人種差別主義と公民権について国際的な注目を集めることとなった。テレビや新聞は「リトルロックの9人」について大々的に報道し,ドワイト・D.アイゼンハワー大統領,ファーバス知事,リトルロック市長のウードロウ・マンは 18日間にわたって状況を話し合った。1957年9月23日,自宅待機が解けた 9人は裏口から学校に戻ったが,暴徒化した白人の抗議者たちによって攻撃された。9月25日,9人は軍隊に護衛されて登校。アイゼンハワー大統領は事態を収拾するため,アメリカ陸軍をリトルロックに派遣した。9人は登校できるようになったものの,白人の生徒から身体的,言語的攻撃を受け続けた。9人の一人,ブラウンは反撃したことで退学になったが,ほかの 8人はその年度の最後まで出席した。1958年,最年長のグリーンが学校を卒業し,リトルロックセントラル高校を卒業した最初のアフリカ系アメリカ人となった。同 1958年ファーバスは知事に再選されると,リトルロックにあるすべての学校を閉鎖した。南部にある多くの学校がリトルロックの例にならい,最高裁判所の決定に反し,学校を閉鎖するか,白人生徒の私立高校への転校を支援した。リトルロックセントラル高校は 1960年まで人種差別を撤廃したかたちで再開されることはなく,公的な場での黒人と白人の融合への試みは,1960年代を通じて行なわれた。
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