アイゼンハワー(読み)あいぜんはわー(英語表記)Dwight David Eisenhower

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アイゼンハワー」の意味・わかりやすい解説

アイゼンハワー
あいぜんはわー
Dwight David Eisenhower
(1890―1969)

アメリカ陸軍元帥で第二次世界大戦の英雄、第34代大統領。10月14日テキサスの農家に7人兄弟の三男として生まれる。弟ミルトンはのちジョンズ・ホプキンズ大学学長。信仰深い両親のもとカンザス州アビリーンで育ち、1915年陸軍士官学校(ウェストポイント)を卒業。陸軍大学を経て、おもに陸軍省で補給兵站(へいたん)の立案に従事し、1932年陸軍参謀総長マッカーサーの副官となる。1935年からフィリピン軍事顧問となったマッカーサーのもとで、1939年まで現地軍の育成にあたった。第二次世界大戦で北アフリカ方面軍司令官として勲功をたて、1943年暮れヨーロッパ連合国軍総司令官に任命される。混成軍をよくまとめ1944年6月ノルマンディー上陸作戦指揮、フランスを解放しドイツの無条件降伏をもたらした。1944年12月元帥に昇進、1945年11月陸軍参謀総長となったが、1948年に退役、コロンビア大学学長に就任。1950年北大西洋軍最高司令官となったが、1952年の大統領選挙に共和党国際派から推されたため辞任、保守派のタフトを破って共和党候補となり、本選挙では前イリノイ州知事スティーブンソンを大差で破った。

 赤ん坊のような笑顔に示される持ち前の人柄で、戦後もっとも人気のある大統領の一人といわれる。内政をアダムス補佐官、外交をダレス国務長官に多く任せ、ニクソン副大統領を重用して「素人(しろうと)大統領」の超然としたポーズで慎重な施政を行った。第1期は経済の好況に支えられ、外交面ではスターリン死後のハンガリー暴動に手出しせず、インドシナ戦争で苦戦するフランス軍への援助を拒否、スエズ戦争では英仏の出兵に反対するなど、低姿勢を取り続けた。心臓病で倒れたのち1956年に大差で再選されたが経済の停滞、人種問題の爆発、さらに当時のソ連に人工衛星打上げで先を越され、U2型機事件によるパリ首脳会談流産、1960年安保闘争による日本訪問中止などのトラブルにみまわれた。1961年1月「軍産複合体」の危険を警告する退任演説のあとケネディに後を譲った。1969年3月28日死去。

袖井林二郎

『仲晃・佐々木謙一訳『アイゼンハワー回顧録』2巻(1965、1968・みすず書房)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アイゼンハワー」の意味・わかりやすい解説

アイゼンハワー
Eisenhower, Dwight David

[生]1890.10.14. テキサス,デニソン
[没]1969.3.28. ワシントンD.C.
アメリカの軍人,政治家。第 34代大統領 (在任 1953~61) 。 1915年ウェストポイント陸軍士官学校卒業。 26年陸軍幕僚学校を首席で卒業。 33~35年 D.マッカーサーのもとで参謀本部に勤務。 41年 12月日本の真珠湾攻撃後,陸軍参謀本部作戦計画部副部長となり,ヨーロッパ進攻計画の作成に従事。次いでヨーロッパ戦線におけるアメリカ軍司令官としてノルマンディー進攻 (→オーバーロード作戦 ) を指揮するなど,連合国勝利のために活躍,44年元帥に昇進。 48年軍務から退き,コロンビア大学総長に就任。 50年 12月 H.トルーマン大統領により北大西洋条約機構 NATO軍最高司令官に任命された。共和党から大統領に立候補し,53年1月大統領に就任。 56年再選。その間,朝鮮戦争休戦,国際原子力機関の創設,ソ連の N.フルシチョフ首相との会談などで平和共存への努力を重ねた。しかし他方,アイゼンハワー・ドクトリンの声明などにみられるように,ソ連に対抗する強い姿勢もみせた。著書『ヨーロッパ十字軍』 Crusade in Europe (1948) 。

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