改訂新版 世界大百科事典 「リーグニツの戦」の意味・わかりやすい解説
リーグニツの戦 (リーグニツのたたかい)
1241年4月9日,シュレジエン南西のリーグニツLiegnitz(現,ポーランド領レグニツァ)の南東ワールシュタットWahlstattで,バイダルの指揮するバトゥ麾下(きか)のモンゴル軍団がシュレジエン公ハインリヒ2世のドイツ・ポーランド軍を破った戦い。ワールシュタットの戦ともいう。戦いについての史料は少ないが,ハンガリーに向かう本隊と分かれてブレスラウ(現,ブロツワフ)から進撃してくるモンゴル軍を,ハインリヒ軍はその領国の西境に近いリーグニツ砦で迎撃しようとした。3万~4万と推定されるモンゴル軍に対しドイツ側は1万足らずであり,かつボヘミア王ウェンツェルらの援軍をも期待しえぬ状況にあった。ハインリヒ2世の軍隊は,ドイツ騎士修道会士やテンプル騎士団士を含むドイツとポーランドの貴族を中心とする重装備の騎士軍であり,農民や坑夫などの歩卒が加わっていた。対するモンゴル軍はよく訓練され機動性に富む騎兵軍であり,質量ともにヨーロッパ側を圧倒したと思われる。結末はハインリヒ軍の完敗であり,公自身も戦死した。モンゴル軍はその後オゴタイ・ハーンの死去などの事情もあって東方に引き揚げたが,戦争の残した影響は少なくなかった。シュレジエンは,ハインリヒ公亡き後,成人の後継者を欠き,しだいに政治的独立性を失う反面,ドイツ人の入植者はますます増大した。ヨーロッパ人にとっては,強力なアジア人との遭遇ということで長く記憶される戦いとなった。
なお1760年,七年戦争の過程でも同名の戦闘がある。この年の8月リーグニツ付近でラウドンLaudon麾下の優勢なオーストリア軍と対峙したプロイセン王フリードリヒ2世(大王)は,巧みな急襲でその一角を破り,次いでロシア軍を追撃して窮状を脱する。劣勢にあったプロイセンを最終的に撃滅しようとしたマリア・テレジアの意図をくじいた起死回生の戦闘として戦史に残っている。
執筆者:魚住 昌良
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報