レハール(英語表記)Franz Lehár

デジタル大辞泉 「レハール」の意味・読み・例文・類語

レハール(Franz Lehár)

[1870~1948]オーストリアの作曲家。各地軍楽隊指揮者をつとめ、のち、ウィーンオペレッタの作曲家として名声を得た。作品に「メリーウィドー」「金と銀」など。

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精選版 日本国語大辞典 「レハール」の意味・読み・例文・類語

レハール

  1. ( Franz Lehár フランツ━ ) ハンガリー生まれのオーストリアの作曲家。陸軍軍楽隊の指揮者をつとめながら、オペレッタの作曲家として成功。オペレッタ「メリー‐ウイドー」、ワルツ「金と銀」などが有名。(一八七〇‐一九四八

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改訂新版 世界大百科事典 「レハール」の意味・わかりやすい解説

レハール
Franz Lehár
生没年:1870-1948

オーストリアの作曲家,指揮者。20世紀最大のオペレッタ作曲家として1934年までに約30作を発表し,J.シュトラウス(子)とオッフェンバック没後衰退していたこの分野に最後の黄金時代をもたらした。ドイツ人軍楽隊長とハンガリー人の女性を両親とするレハールは,プラハ音楽院バイオリンと作曲を修め,応召して軍楽隊長を務めながら作曲に励んだ。1902年に軍務を退いて作曲と指揮に専念し,05年ウィーンで初演した《メリー・ウィドウDie lustige Witwe》でオペレッタ史上空前の成功を収めた。第1次大戦後はアメリカから押し寄せたポピュラー音楽に人気を奪われたが,名テノール歌手タウバーRichard Tauber(1891-1948)のために書いた一連の作品(《ほほえみの国》1929など)で人気を回復した。妻がユダヤ系でありながら作品がヒトラーのお気に入りだったため,第2次大戦後の晩年は不遇だった。繊細で自然な旋律美に恵まれたレハールは,本格的に作曲を勉強したことと,20世紀初頭の新音楽やアメリカのポピュラー音楽を大胆に作品に取り入れたことで,オペレッタ史上例外的な存在である。《エバ》(1911)のように,因襲を破って悲劇的・社会的な題材も扱ったことは特筆される。オペレッタ以外の作品も非常に多く,《金と銀Gold und Silber》(1902)をはじめとするウィンナ・ワルツがとくによく知られている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「レハール」の意味・わかりやすい解説

レハール
れはーる
Franz Lehár
(1870―1948)

オーストリアの作曲家。1870年4月30日、当時ハンガリー領だったコマロム(現スロバキアのコマルノ)に生まれる。軍楽隊隊長の父に音楽の手ほどきを受けたのち、プラハ音楽院でバイオリンと理論を学ぶが、ドボルザークの勧めで作曲を目ざすようになる。トリエステブダペスト、ウィーンなどで軍楽隊指揮者を務め、各地を旅行した経験が、彼のオペレッタを変化に富んだものにしているという。1902年の『ウィーンの女たち』の成功以降ウィーンに定住。05年の『メリー・ウィドー』の大成功で世界的名声を博し、以後、ヨハン・シュトラウス以降でもっとも成功したウィーン・オペレッタ作曲家としての地位を確保した。48年10月24日バド・イシェルで没す。そのほかの代表作に『ジプシーの恋』(1910)、『パガニーニ』(1925)、『ロシアの皇太子』(1927)、『ほほえみの国』(1929)、そしてワルツ『金と銀』などがある。

[細川周平]

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百科事典マイペディア 「レハール」の意味・わかりやすい解説

レハール

オーストリアの作曲家,指揮者。現ハンガリー領コマーロムでドイツ人の父とハンガリー人の母の間に生まれる。12歳でプラハ音楽院に入学し,バイオリンと作曲を学ぶ。軍楽隊指揮者を経て,1902年からウィーンで指揮者として活動を始め,1905年にオペレッタ《メリー・ウィドー》を発表。ウィーンを熱狂させたこの作品は,以後ドイツ各地,ペテルブルグ,ミラノ,ロンドン,ニューヨークなどで相次いで上演され,オッフェンバック,J.シュトラウス時代以来のオペレッタ熱を呼び起こした。ほかに,オペレッタ《ルクセンブルク伯爵》(1909年),同《ほほえみの国》(1929年),《金と銀》(1902年)などのウィンナ・ワルツが知られている。
→関連項目シュトラウス

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レハール」の意味・わかりやすい解説

レハール
Lehár, Franz

[生]1870.4.30. コマーロム
[没]1948.10.24. バートイシュル
オーストリアの作曲家。軍楽隊隊長の父に手ほどきを受け,プラハ音楽院で学んで,ウィーンの軍楽隊指揮者となった。 1902年オペレッタ『ウィーンの女たち』の成功で作曲に専心。 05年ウィーンで上演された『メリー・ウィドー』は,ワルツやパリのカンカンの踊りの要素などを取入れて画期的成功を収め,彼の名は世界的になった。ほかにワルツ『金と銀』など。

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世界大百科事典(旧版)内のレハールの言及

【オペレッタ】より

…洗練された題材,舞踏(とくにワルツ)と高度な音楽技法の駆使によってW.R.ワーグナーの楽劇に対抗する人気を博した。20世紀に入りレハールF.Lehár(1870‐1948)の豪華なサロン劇《メリー・ウィドー》(1905)や人情喜劇《ほほえみの園》(1929)をはじめ数多くの作品が作られた。一方ベルリン風オペレッタはリンケR.Lincke(1866‐1946)の《ルーナ夫人》(1899)に始まり風刺や活力あふれる簡潔なオペレッタが書かれ,第2次大戦後はアメリカのミュージカルの逆輸入によって1948‐65年に130以上ものオペレッタが作曲された。…

【オペレッタ】より

…洗練された題材,舞踏(とくにワルツ)と高度な音楽技法の駆使によってW.R.ワーグナーの楽劇に対抗する人気を博した。20世紀に入りレハールF.Lehár(1870‐1948)の豪華なサロン劇《メリー・ウィドー》(1905)や人情喜劇《ほほえみの園》(1929)をはじめ数多くの作品が作られた。一方ベルリン風オペレッタはリンケR.Lincke(1866‐1946)の《ルーナ夫人》(1899)に始まり風刺や活力あふれる簡潔なオペレッタが書かれ,第2次大戦後はアメリカのミュージカルの逆輸入によって1948‐65年に130以上ものオペレッタが作曲された。…

【軍楽隊】より

…オーストリアでは舞踏会場における演奏にまで軍楽隊が進出したものである。オーストリアの軍楽隊出身のバンド・マスターとして,グングルJoseph Gungl(1809‐89)やF.レハールがいる。またアメリカで最も大きな活動をした軍楽隊長にJ.P.スーザがいる。…

【コマールノ】より

…中世そのままの古い城砦は16世紀の対トルコ戦争,1848‐49年のハンガリー革命軍の対オーストリア防衛戦に重要な役割を果たした。喜歌劇《メリー・ウィドウ》の作曲家レハールFranz Lehár(1870‐1948)の生誕地。【稲野 強】。…

※「レハール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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