レヤード
Austen Henry Layard
生没年:1817-94
イギリスの考古学者,政治家,外交官。パリに生まれ,少年時代の多くを過ごしたイタリアで美術に興味をもった。16歳のときロンドンに帰り,叔父の法律事務所で6年間働いたがなじめず,1839年セイロンに向けて出発。途中イラン,イラクを放浪するうちトルコ大使カニングの知遇を得てメソポタミアの発掘を始めた。彼の名を高からしめたアッシリアのニムルドとニネベの発掘では,なぞを秘めた人面有翼獅子像や,旧約聖書の《列王紀》に伝えられる,ユダの町々に対するアッシリアの攻撃を示す浮彫および粘土板文書を得,彼はそれらを大英博物館に展示して,19世紀中葉のヨーロッパ世界に一大センセーションを起こした。また,発掘の顚末を記した《ニネベとその遺跡》(1848-49)その他の著書がベストセラーになり,社交界の寵児となった。のち政界に入り,東欧・トルコ問題で活躍し,77年ナイトに叙せられて80年に引退。余生は,主としてベネチアで美術の研究と著作活動に従事した。
執筆者:小野山 節
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レヤード
英国の考古学者,外交官。パリ生れ。1845年以来ニネベを発掘して成果を上げ,またバビロンの遺跡を調査。のち外務省に入り,スペイン大使(1869年―1877年),トルコ大使(1877年―1880年)を務めた。主著《ニネベとその遺跡》等。
→関連項目アッシリア学
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レヤード
れやーど
Sir Austen Henry Layard
(1817―1894)
イギリスのアッシリア学者で外交官。1845~51年アッシリアの首都であったイラクのニムルードとニネベの発掘に携わった。この発掘で得た多くの遺物やアッシュール・バニパル王の古文書はロンドンの大英博物館に収蔵されている。のちに下院議員を経て、駐スペイン公使(1869~77)、駐トルコ公使(1877~80)を歴任している。主著に『ニネベと出土遺物』全二巻(1848~49)、『ニネベとバビロン』(1853)などがある。
[寺島孝一]
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世界大百科事典(旧版)内のレヤードの言及
【アッシリア学】より
…このような広範で多彩な学問領域がアッシリア学の名で包括されるのは,メソポタミアの発掘で最初に知られるようになったのが,アッシリアの遺跡とアッシリア語であったことに起因する。 初期の発掘はイラクのモースル周辺のアッシリアの遺跡を中心に行われ,1842年にはフランスのボッタP.E.Bottaがニネベ,コルサバードの発掘を開始し,45年にはイギリスの[レヤード]がニムルドで考古学的調査を開始している。この時期の発掘は古代遺物の探索が主要な目的であって,近代的技術を用いた科学的発掘は20世紀に入ってバビロンにおけるコルデワイR.Koldewey,アッシュールにおけるアンドレーW.Andraeらにまたなければならないが,ニネベにおけるアッシュールバニパル王の書庫の発見は,それ以後の文献学的研究の基礎となる特記すべき事件であった。…
【ニネベ】より
…王城跡はクユンジュクQuyunjuqと呼ばれている。フランス領事ボッタP.E.Bottaが1842年に発掘を始め,イギリスのA.H.レヤードが加わって,ここがニネベの廃墟とわかると,イギリス,フランスの凄まじい発掘競争が展開された。その結果,イギリスが発掘を継続して,彫像品ばかりでなく大量の楔形文字の粘土板を発掘し,アッシリア学の基礎資料となった。…
【ニムルド】より
…アッシリア時代の都市名はカルフKalhu,《創世記》にはニムロデの建てたカラとある。イギリスのA.H.レヤードらが19世紀半ばに王城の宮殿跡を発掘し,宮殿装飾に用いられた浮彫や人面有翼獅子像などを大英博物館で展示して,ヨーロッパ世界に大センセーションを巻き起こした。長い中断ののち1944年から63年までイギリスのM.E.L.マローワンやD.オーツらが精密な発掘を行って重要な事実を明らかにしたが,その後イラク政府とポーランドが,遺跡の保存工事を行い,展示施設をつくりながら発掘を進めている。…
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