日本大百科全書(ニッポニカ) 「ローマ共和国」の意味・わかりやすい解説
ローマ共和国
ろーまきょうわこく
Repubblica Romana イタリア語
1849年イタリアのローマに樹立された共和政府。前年の11月、ローマでは教皇ピウス9世の反オーストリア民族戦線からの離脱後の混乱のなかで、ロッシ首相が急進派によって暗殺された。その後、急進派の圧力を恐れた教皇は、両シチリア国王の保護を求めて、ガエタに逃れた。無政府状態のローマを掌握した臨時評議会は、49年2月9日教皇の俗権の廃棄と共和国樹立を宣言し、アルメリーニなどの執行委員会を任命した。その後、共和国の全権はマッツィーニを主席とする三頭執政官にゆだねられた。共和政府が取り組んだ社会政策は概して穏和なものであったが、農業政策と憲法制定など注目すべき企図を含んでいた。フランスのルイ・ナポレオンは、オーストリアが教皇のためにローマ奪回の主導権を握ることを恐れ、4月チビタベッキアに派兵して共和政府と教皇との間の和解斡旋(あっせん)を申し出た。斡旋を拒否した共和国はフランス軍に包囲され、南からは両シチリア王国軍の攻撃を受けながらも1か月にわたって英雄的防戦を続けたが、ガリバルディと全国から集まった義勇兵たちの奮闘もむなしく、6月末ローマは落城し、7月3日フランス軍が入城した。
[重岡保郎]
『森田鉄郎著『マッツィーニ』(1972・清水書院)』