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アウシュウィッツ収容所 アウシュウィッツしゅうようじょAuschwitz concentration camp

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アウシュウィッツ収容所
アウシュウィッツしゅうようじょ
Auschwitz concentration camp

ナチス・ドイツが建設した最大の強制収容所。現在のポーランド南部ガリチアの工業都市オシフィエンチム (ドイツ語でアウシュウィッツ) 近郊に広がるこの収容所群は,ナチスがヨーロッパにおけるユダヤ民族抹殺,いわゆる「最終的解決」の実施に利用した主要施設の一つである。 1979年国連教育科学文化機関 UNESCOにより世界遺産の文化遺産に登録された。
ナチス親衛隊長 H.ヒムラーは 1940年4月に第1収容所の建設を命令,6月にはポーランド人政治犯からなる第1陣が到着した。この小規模な収容所,アウシュウィッツ1は創設から閉鎖まで一貫して,ポーランド人,ドイツ人主体の政治犯収容施設として使われた。 1941年近くのブジェジンカ (ドイツ語でビルケナウ) 村の郊外に,アウシュウィッツ2 (ビルケナウ) が設けられ,親衛隊はその後ここに巨大な強制収容所と絶滅施設を建設。およそ 300の収容棟,収容者を毒ガス死させるための四つの巨大なガス室 (シャワー室に偽装) ,遺体安置所,火葬場がつくられた。近くの村に設けられた別の収容所 (モノウィッツ) はのちにアウシュウィッツ3と呼ばれ,1942年化学・合成ゴム工場に労働者を供給する奴隷労働収容所になった。アウシュウィッツはさらに,地域一帯に点在する 45ヵ所のより小規模な収容所の集合体となり,その大部分に奴隷労働者が収容された。
貨車でアウシュウィッツに到着したユダヤ人はまず選別にかけられ,体力のある青年男女が強制労働収容所に送られる一方で,高齢者,弱者,病人,子供とその母親はガス室で殺され,遺体は火葬場で焼かれた。強制労働に従事した者に対しても,過労や病気,飢えによって体力の落ちた者を取り除くため,定期的に選別が行なわれた。また数千人の収容者が収容所の医務長 J.メンゲレによる医学実験の対象となった。
1944年から 1945年初めにかけて,ソ連軍が進撃してくるなか,アウシュウィッツは段階的に放棄された。 1945年1月時点で残っていた収容者はダッハウやマウトハウゼンその他のドイツ国内の収容所に移送されたが,病気や飢餓を理由に放置された 7650人は到着したソ連軍によって発見された。さまざまな理由でアウシュウィッツで死亡した収容者の総数は,算定方法によって大きな違いがあるものの,およそ 160万人といわれている。このうち 130万人がユダヤ人で,残り 30万人はおもに (非ユダヤ系の) ポーランド人,ソ連軍の捕虜およびジプシー (ロマ) で構成されている。ドイツ軍はここを放棄する際,建物の一部を破壊したが,アウシュウィッツ1と2の大部分は無傷のまま残り,のちに博物館兼記念館に改造された。その後施設は閉鎖の危機にさらされたが,1996年ポーランド政府はさまざまな組織と手を携え,保存に乗り出した (→ホロコースト ) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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