ポーランド南部、マウォポルスカ県の都市。第二次世界大戦中、郊外にユダヤ人強制収容所があったことで知られる。ドイツ語名アウシュヴィッツ。県都クラクフの西50キロメートルにあり、人口4万3586(2000)。町の起源はさだかではないが中世からの歴史をもつ。鉄道の結節点で、化学、皮革、農具製造などが行われる小工業都市。第二次世界大戦時の1940~45年、ナチスはここの強制収容所で110~150万人(その大多数がユダヤ人)を殺害した(犠牲者数は専門家による推計)。このためアウシュヴィッツの名はナチスのユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を象徴することばとなった。
13世紀以来、都市として発展し、1772年ポーランド第一次分割でオーストリアに帰属し、19世紀後半に工業都市となり、1919年ポーランドの独立回復に伴ってポーランドに復帰した。第二次世界大戦が始まると、1939年ドイツ軍に占領された。40年ナチスの親衛隊(SS)はここに強制収容所を設けるが、翌41年ヒトラーがユダヤ人問題の「最終的解決」を命じると、これを受けて大量殺害施設として拡大された。この場所が選ばれた第一の理由は、ヨーロッパのドイツ占領地域のほぼ中央に位置し、鉄道網の結節点であったことにある。以後45年1月ソ連軍に解放されるまで、全ヨーロッパからつれてこられたユダヤ人をはじめ、ポーランド人、ロシア人、ロマ(かつてはジプシーとよばれた)、政治犯など多数の人々が殺害された。収容された人々は綿密な輸送計画に従って各地から集められ、強壮なものは強制労働収容所へ、その他は絶滅収容所へと選別され、ガス室で殺害、焼却された。彼らの衣料は軍需工場の外国人強制労働者に配布され、金銀宝石類はライヒスバンク(ドイツ国立銀行)に送られた。このような計画的虐殺が行われたことにナチズムの本質、戦争のもたらす狂気の極限をみることもできよう。収容所跡は1979年に世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)として登録され、国立のアウシュヴィッツ‐ビルケナウ博物館として保存されている。
[吉田輝夫]
『R・ヘス著、片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所――所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』(1972・サイマル出版会)』▽『プリーモ・レーヴィ著、竹山博英訳『アウシュヴィッツは終わらない』(1980・朝日新聞社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ポーランド南部,ビエルスコ・ビャーワ県の工業都市オシフィエンチムOświęcimのドイツ名。クラクフの西53kmにあり,人口4万6000(1985)。…
※「オシフィエンチム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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