平安時代以来、火葬場のことを三昧(さんまい)といった。中世以降、火屋(ひや)、火家、龕堂(ひや)などの呼称が普通となった。火屋という呼び方は関西に現在も残っているが、関東では江戸中期に使われなくなり、その後いつとはなく焼場(やきば)と変わった。明治時代以後は火葬場と焼場が併用されて現在に及ぶが、近年は地方公共団体によっては斎場(さいじょう)という新呼称を採用しているところも少なくない。史料的には、平安末期の堀河(ほりかわ)天皇の火葬場のことが『中右記(ちゅうゆうき)』に出ている例などが古いものであるが、室町時代になると、京都などの都市の火葬場のことが文献にもしばしば登場してくる。江戸時代に入ると、江戸の火葬場は小塚原(こづかっぱら)に幕府の許可を得て開かれたのが始まりで、江戸の五三昧と称された火葬場は小塚原、千駄ヶ谷(せんだがや)、桐ヶ谷(きりがや)、渋谷、炮録新田(ほうろくしんでん)の5か所であった。大坂には大坂七墓といわれる火葬場を中心とする墓地が所在し、長柄(ながら)、梅田、南浜、蒲生(がもう)、小橋(おばせ)、千日(せんにち)、飛田(とびた)などがそれにあたっていたようである。
わが国で近代的設備をもつ火葬場が出現するのは、1878年(明治11)の京都の両本願寺火葬場が最初である。その他の地方都市でもしだいに近代的設備をもつ火葬場が現れるが、薪(まき)を主燃料とする火葬で、翌日拾骨が一般的であった。コークス、石炭、電気、重油などを使用する火葬炉の登場によって即日拾骨が可能になったのは、1927年(昭和2)6月、東京の博善社の町屋(まちや)火葬場で、重油炉2基が完成したときが始まりである。即日拾骨に伴って、火葬場のあり方も、建造物の建て方も、おのずから変化を迫られる。第二次世界大戦後は、法的規制や、地方の都市化と道路の発達などにより、多くの地方公共団体も火葬場を保有するようになり、火葬が常識化されてきて、灯油や都市ガスなどで60~70分間のうちに焼き上げ、速やかに拾骨して帰るのが全国的に一般化している。火葬場は、ごみ焼却場や屎尿(しにょう)処理場などとともに迷惑施設の一つとして、住民の設置反対運動や、地価低下に対する訴訟などが行われ、行政的には根強い偏見への対応に腐心している。しかし、しだいに公園や緑地と同じような印象をもたれうる新しい火葬場のあり方も模索されつつあり、1981年(昭和56)4月からの京都市中央斎場のような火葬場の操業を契機として、都市空間のなかでの火葬場の現代的変容が行われている。
[浅香勝輔]
『浅香勝輔・八木沢壮一著『火葬場』(1983・大明堂)』
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