アウンサン(英語表記)Aung San

デジタル大辞泉 「アウンサン」の意味・読み・例文・類語

アウン‐サン(Aung San)

[1915~1947]ビルマミャンマー)の独立運動指導者。第二次大戦中、独立のため日本軍に協力、のち抗日運動を指導。戦後英国からの独立達成に尽力したが、暗殺された。オンサン

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改訂新版 世界大百科事典 「アウンサン」の意味・わかりやすい解説

アウンサン
Aung San
生没年:1915-47

ビルマ(現,ミャンマー)の政治家。独立運動の指導者。オン・サンと誤って表記されることもある。マグエ県ナッマウ町の出身。1936年ラングーン大学在学中,学生連盟委員長のウー・ヌと共に学生のストライキを指導。卒業後〈われらビルマ人連盟〉に入党し,タキン・アウンサンと名乗って政治活動を開始した。40年バモーの率いる貧民党と連盟とが合併して自由ブロックを結成すると,事務局長に選ばれたが,同年逮捕状を逃れて潜行アモイへ密出国し,11月参謀本部の鈴木敬司大佐の手引きで来日。〈南機関〉の協力を得て,41年ビルマを脱出させた青年30人と共に海南島で軍事訓練を受け,同年末ビルマ独立軍を結成,日本軍と共にビルマに進撃した。42年鈴木の離任に伴い改編されたビルマ防衛軍の司令官に就任。43年バモー内閣の国防相。44年共産党や人民革命党と協議のうえ,抗日戦線〈反ファシスト人民自由連盟〉を結成,45年3月に蜂起。10月連盟総裁として政権の担当をビルマ総督に要求,46年9月行政参事会副議長に任命された。47年1月〈アウンサン=アトリー協定〉に調印,独立準備に没頭したが,7月19日閣僚6人と共に保守派の政治家ウー・ソーの配下に暗殺された。
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百科事典マイペディア 「アウンサン」の意味・わかりやすい解説

アウンサン

ミャンマーの政治家。独立運動の指導者にして,建国の父とあおがれる。オン・サンと誤記されることもある。学生時代から独立運動に参加,タキン党を指導。第2次大戦中対日協力政権の国軍司令官,国防相。のち抗日に転じ,1944年反ファシスト人民自由連盟を結成。1946年中間政府副首席。1947年ロンドンで独立準備協定調印,帰国後閣議中に暗殺される。長女はノーベル平和賞受賞のアウンサン・スーチー
→関連項目ウー・ヌ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「アウンサン」の解説

アウンサン Aung San

1915-1947 ビルマ(現ミャンマー)の政治家。
1915年2月13日生まれ。アウンサンスーチーの父。ラングーン大在学中から反英独立運動を指導。昭和15年来日し,日本の援助でビルマ独立軍を結成。太平洋戦争中,日本の軍政下でビルマ防衛軍司令官,バモー内閣の国防相をつとめるが,1944年抗日戦線「反ファシスト人民自由連盟」を結成して蜂起(ほうき)。イギリスからの完全独立を目前にして,1947年7月19日保守派に暗殺された。32歳。

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世界大百科事典(旧版)内のアウンサンの言及

【ミャンマー】より

…バモーを首班とする中央行政府が設けられ,43年には東条内閣によってビルマ独立が許容された。しかし日本によるビルマ独立は見せかけにすぎず,対日不信を募らせたアウンサンらは,45年3月ビルマ軍を率いて蜂起,全土で抗日運動を展開した。
[独立]
 終戦とともにビルマにはイギリスの民政が復活した。…

※「アウンサン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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