ウー・ヌ(読み)うーぬ(英語表記)U Nu

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウー・ヌ」の意味・わかりやすい解説

ウー・ヌ
うーぬ
U Nu
(1907―1995)

ビルマ(現ミャンマー)の政治家。下ビルマのミャウンミャ県生まれ。1925年ラングーン大学(現ヤンゴン大学)に入学。在学中に学生運動を指導。1937年ビルマ独立の父とよばれるアウンサンらとタキン党入党、1940年反英活動のかどで2年間投獄される。1943年日本軍政下バー・モー政権の外相、翌1944年情報相に就任。1944年「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL)結成とともに副総裁となる。1947年同総裁となり、ビルマ独立に関するウー・ヌ‐アトリー協定に署名、1948年のビルマ独立とともに初代首相となる。国内では各種反乱に悩まされたが、外交面ではインドのネルーらと並び新興諸国連帯に活躍。1956年、1958年と二度にわたり下野、1960年三たび首相に復帰、中国・ビルマ国境条約締結に成功したが、1962年3月ネ・ウィン将軍のクーデター失脚、1966年まで拘禁された。1969年以後ネ・ウィン軍政打倒のゲリラ活動を展開したが、1980年7月ネ・ウィン政権の恩赦を受けて投降した。文才にも優れた敬虔(けいけん)な仏教徒

[黒柳米司]

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改訂新版 世界大百科事典 「ウー・ヌ」の意味・わかりやすい解説

ウー・ヌ
U Nu
生没年:1907-95

ビルマ(現,ミャンマー)の政治家。ミャウンミャ県ワーケーマ町出身。1929年ラングーン大学文学部卒業後,高校教師。35年法学部に再入学後,学生連盟委員長となり,36年の学生のストライキを指導,政治運動に乗り出すが,40年逮捕投獄された。日本軍のビルマ進駐に伴い出獄,43年バモー内閣の外相,44年情報相。45年〈反ファシスト人民自由連盟〉副総裁,47年制憲議会議長に選出された。同年7月アウンサンの暗殺に伴い行政参事会副議長(首相)に就任,10月〈ヌ=アトリー協定〉を締結した。48年1月のビルマ独立と同時に初代首相。56年の総選挙後政権を一時ウー・バスエに譲り,57年3月復職。与党の分裂から58年ネーウィン将軍に暫定政権を委ねた。60年の総選挙で返り咲いたが,62年3月クーデタで逮捕され,66年10月まで拘禁された。69年出国してネーウィン軍政打倒運動を開始したが,のち引退,80年7月大統領の要請で帰国した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウー・ヌ」の意味・わかりやすい解説

ウー・ヌ
U Nu

[生]1907.5.25. ワケマ
[没]1995.2.14. ヤンゴン
ビルマ (現ミャンマー) の政治家。 1929年ラングーン大学卒業後ビルマ独立の父アウン・サンらとともに反英独立運動に参加,40年入獄。第2次世界大戦中,ビルマに進攻した日本軍に釈放された。 43年バ・モー対日協力政権の外相,情報相となったが,まもなく日本軍の政策に失望,アウン・サンの反ファシスト組織に参加。戦後アウン・サンの暗殺に伴い反ファシスト人民自由連盟 AFPFL総裁。 48年ビルマ独立とともに初代首相。 58年 AFPFLが2派に分裂し,政権をネ・ウィン軍司令官に譲った。 60年 AFPFL清廉派 (連邦党) を率いて選挙に大勝,再び首相となった。 62年ネ・ウィンのクーデターで失脚。 69年タイに亡命。 70年民族解放統一戦線を結成,反政府闘争を展開したが,73年引退,インドに亡命。 80年に帰国し,反政府勢力の指導者の一人となった。

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20世紀西洋人名事典 「ウー・ヌ」の解説

ウー・ヌ
U Nu


1907.5.25 -
ビルマの政治家。
元・ビルマ首相。
ミャウンミャ県ワーケマ生まれ。
ラングーン大学法学部に学ぶ。
1929年ラングーン大学文学部卒業後、高校教師となるが、法学部に再入学、在学中学生運動を指導。’37年タキン党入党、’40年反英活動で2年間投獄。日本軍のビルマ進出に伴い出獄、バー・モー政権の外相、情報相に就任、続いて「反ファシスト人民自由連盟」の副総裁に’47年総裁となり「ヌ・アトリー協定」を締結、’48年ビルマ独立と同時に初代首相に就任、2度にわたり下野、三たび首相に復帰するが’62年クーデターで逮捕’66年まで拘禁。’69年出国、’80年大統領の要請でインドより帰国。’88年マン・ウィン・マウン元大統領らとともに一党独裁の現政権に代わる暫定政権の樹立を宣言したが失敗。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「ウー・ヌ」の意味・わかりやすい解説

ウー・ヌ

ミャンマーの政治家。第2次大戦前はタキン・ヌーとも。1930年代からアウンサンとともにタキン党を組織し独立運動を指導,戦中親日派のバモー政権に参加,のち抗日活動に参加した。戦後は反ファシスト人民自由連盟副総裁。アウンサン死後は総裁となり,独立と同時に初代首相となる(1948年―1958年)。1960年にも首相となったが,1962年軍部クーデタで失脚,1966年まで監禁された。→ネーウィン

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ウー・ヌ」の解説

ウー・ヌ
U Nu

1907~95

1936年我らビルマ人協会(タキン党)に入り,日本軍政下のバーモ政権下で外相,情報相を歴任。47年反ファシスト人民自由連盟の議長となり,独立後最初の首相。ネ・ウイン政権成立後は国外で少数民族と連携して反政府活動を展開するも,80年帰国。88年民主化運動に参加し,併行政府の設立を宣言。90年まで民主平和連盟の名誉総裁。

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367日誕生日大事典 「ウー・ヌ」の解説

ウー・ヌ

生年月日:1907年5月25日
ビルマの政治家
1995年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のウー・ヌの言及

【東南アジア】より

…ミャンマーではかつて,15%の非仏教徒の反対を押し切って,仏教の国教化を強行したことによって,政治的混乱が発生した。多民族国家であるミャンマーは,建国以来世俗国家を目ざし,宗教間のあつれきを避ける政策を採ってきたが,ウー・ヌ首相は,多数派である仏教徒の圧力を政治的に利用して憲法改正を行い,ミャンマーを仏教国家としようとしたため,非仏教徒の反発を招き,1962年に失脚してしまった。ミャンマーの新憲法(1974)では,宗教の政治的利用が禁止され,政教分離の原則が明確に打ち出されている。…

【ミャンマー】より

…56年の総選挙では,弱小10政党が合同結成した民族統一戦線が250議席中47議席を獲得して与党をあわてさせた。与党内部では,指導者のウー・ヌとウー・バスウェ,ウー・チョーニエインとの間に亀裂が入った。両派の対立が激化し,58年6月には分裂したため,ネーウィン参謀総長が担ぎ出され,選挙管理内閣が組織された。…

※「ウー・ヌ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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