日本大百科全書(ニッポニカ) 「アスペ」の意味・わかりやすい解説
アスペ
あすぺ
Alain Aspect
(1947― )
フランスの物理学者。フランス南部アジャン生まれ。1965年から1969年までカシャンの高等師範学校エコール・ノルマル・シュペリュール(ENS)およびオルセー大学(パリ第十一大学の一部。2019年パリ・サクレー大学に統合)で学び卒業。1971年から1974年までカメルーンの高等師範学校で教師を務め、1974年にカシャンの高等師範学校の講師として戻った。1983年オルセー大学で博士号を取得。1985年に特別高等教育研究機関コレージュ・ド・フランスの研究員となり、1992年から国立科学研究センター(CNRS)主任研究員、1994年エコール・ポリテクニク(理工科大学校)教授、2005年パリ第十一大学(現、パリ・サクレー大学)光学研究所研究員、ついで教授になる。CNRS名誉上級研究員。
光子、電子などの物理現象を扱う量子力学の世界では、二つの粒子が、互いに関係しあう「量子もつれ」という不思議な現象が起こる。一方の粒子の性質が観測によって確定すると、もう一つの粒子の性質もどんなに離れていても瞬時に決まるというものである。粒子には、磁気的な性質「スピン」や波の振動方向である「偏光」が認められるが、スピンの場合、一方の粒子が上向きだと、もう一方の粒子は下向きとなる。偏光は、それぞれが直交する方向となる。
量子もつれについては、1935年に、アルバート・アインシュタイン、ボリス・ポドルスキーBoris Podolsky(1896―1966)、ネイサン・ローゼンNathan Rosen(1909―1995)の3人が共同で発表。相対性理論を唱えるアインシュタインは、光より速く伝達するものはないということから、量子もつれを否定的にとらえ、「隠れた変数理論」(量子力学に特徴的な確率的な性質を、実験者が観測できない変数によって説明する理論)があると提唱した。量子もつれは、3人の頭文字をとって「EPRパラドックス」とよばれた。
この謎(なぞ)は長い間、解明されなかったが、北アイルランド出身の物理学者ジョン・スチュアート・ベルJohn Stewart Bell(1928―1990)が、「量子もつれが実在せずに、隠れた変数理論があるとしたら、実験的な測定値が特定の範囲に収まる」という「ベルの不等式」を考案し、1964年に発表した。これを機に、量子もつれは実験で証明する舞台に移った。
最初に取り組んだのは、カリフォルニア大学バークリー校にいたジョン・クラウザーらで、カルシウム原子から放出される二つの光子を逆方向に発射し、偏光をフィルターで観測した。その結果、不等式は特定の範囲内に収まらず、破れが生じていることを確認。量子もつれの存在を証明した。しかし、この実験では光子の発射前に偏光フィルターの角度を固定していたため、それがもう一方の光子に影響する可能性があるなど、観測手法の不備が指摘されていた。
これを改良したのが、アスペである。1982年に、光子が発射された後に偏光フィルターの向きをレバーでランダムに切り替えた。この実験でもベルの不等式の破れが観測され、量子もつれの存在は決定的となった。しかし、偏光フィルターが近くにあったため、「抜け穴」があるのではと指摘された。この疑問を遠い銀河からもたされる信号でフィルターを制御するという実験によって解消したのが、オーストリア・ウィーン大学教授のアントン・ツァイリンガーである。2006年にその実験結果を発表し、量子もつれは完全に証明された。
アスペは、2005年フランス国立科学研究センター・ゴールドメダル、2009年ヨーロッパ物理学会量子エレクトロニクス賞、2010年ウルフ賞(物理学部門)、2011年トムソン・ロイター引用栄誉賞、2012年アルバート・アインシュタイン・メダルを受賞。2022年、「量子もつれ光子を用いて、ベルの不等式の破れを示した実験と量子情報科学の先駆的研究」の成果で、クラウザー、ツァイリンガーとともにノーベル物理学賞を受賞した。量子もつれの解明は、量子力学の発展に寄与し、量子コンピュータ、量子暗号通信などの量子情報技術を支える基盤となっている。
[玉村 治 2023年2月16日]