ベル(読み)べる(英語表記)Heinrich Böll

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベル」の意味・わかりやすい解説

ベル(Daniel Bell)
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Daniel Bell
(1919―2011)

アメリカの社会学者。青年期に社会主義の洗礼を受けて社会主義運動に積極的に関与し、アメリカ社会主義の蹉跌(さてつ)を味わったのちに『コモンセンス』『フォーチュン』などの雑誌編集に携わる。その後、シカゴ大学コロンビア大学での教員歴を経て、ハーバード大学に移り、1980年にヘンリー・フォード2世記念講座・社会科学教授となる。1990年に教授職を退いてからは、現代社会の経済・政治・文化の諸問題について健筆をふるい、旺盛(おうせい)な評論活動に専念した。アカデミズムジャーナリズムとの掛け橋になろうと自覚的に努めるとともに、未来学への先鞭(せんべん)をつけたことで有名なアメリカ芸術科学アカデミー・西暦2000年委員会議長をはじめ、テクノロジー、社会予測、社会指標などに関する政府の各種委員会のメンバーとしても活躍し、現代アメリカのもっとも影響力のある知識人といわれた。輝かしい金字塔の三部作である『イデオロギーの終焉(しゅうえん)』(1960)、『脱工業社会の到来』(1973)、『資本主義の文化的矛盾』(1976)をはじめ、時代の先端的問題に鋭く切り込む社会学的著作を次々と江湖に問い、新保守主義の代表的イデオローグとして揺るぎない地位を確立した。

 現代社会を分析する理論的枠組みとして、(1)技術的、経済的、職業的諸制度からなる社会構造、(2)政治形態、(3)文化の三つの独立した領域を設定し、それぞれが鎖のように連関しながらも固有の原理に基づいて運動し、全体としてぎくしゃくした連結体を形づくっていると考え、これら三つの領域間の緊張、葛藤(かっとう)、矛盾の動態に着目する社会学的パラダイムを提起した。この一見冷徹な理論モデルの相貌(そうぼう)にもかかわらず、マルクス主義はもとより、機能主義にもみられる全体化論的社会観にまっこうから対決し、社会学理論の再構築を企図するしたたかな意欲と熱情が押し隠されている。

 自らの思想的座標軸を、「経済については社会主義者、政治では自由主義者、文化では保守主義者である」と語っているが、このような思想的パスティーシュ(混成)こそ、彼の真骨頂を示すとともに、その社会学理論を激越な論争の渦に巻き込むのである。

[岡田直之]

『岡田直之訳『イデオロギーの終焉』(1969・東京創元新社)』『内田忠夫他訳『脱工業社会の到来』上下(1975・ダイヤモンド社)』『林雄二郎訳『資本主義の文化的矛盾』上中下(講談社学術文庫)』


ベル(Heinrich Böll)
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Heinrich Böll
(1917―1985)

ドイツの小説家。第二次世界大戦後のドイツ文学を代表する作家の1人。ケルン生まれ。高校卒業後まもなく第二次世界大戦に出征。6年間各地を転戦、東部フランスのアメリカ軍捕虜収容所で敗戦を迎えた。廃墟(はいきょ)となった故郷の町ケルンに帰り、作家生活に入る。前線に戻る帰休兵の心理を描いた『汽車は遅れなかった』(1949)で批評家の注目を集め、初期の短編を集めた『旅人よスパ……に来たりなば』(1950)では戦中戦後の過酷な運命に翻弄(ほんろう)される庶民の姿を描いて好評を博す。1951年ユーモア短編小説『黒羊』で「グループ47」賞を受賞。以後『アダムよ、お前はどこにいた』(1951)、『保護者なき家』(1954)をはじめ、ほとんど全作品がベストセラーになる。これは優れたストーリー・テラーとしての特質、弱く善良な戦争犠牲者たちに注がれる温かいまなざし、作品の底を流れる庶民的正義感が読者の共感をよんだものであろう。同時にそれは過去の罪過への反省を欠いた戦後社会の風潮への厳しい批判ともなる。『9時半の玉突き』(1959)、『道化の意見』(1963)、『婦人のいる群像』(1971)などの長編がそれで、一方、短編にも完成度の高い作品がある。また時局的問題に関する彼の直接的発言も多く、政治の右傾化や管理社会化の進行、大衆新聞の画一主義などに対する指弾は、ときに大きな反響をよんだ。のちに映画化された『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』(1974)や『行き届いた管理体制』(1979)など、近年はこうした関心から直接生まれた作品もある。1971年以後国際ペンクラブ会長を務め、また72年にはノーベル文学賞を受賞した。85年7月、脳血栓で死去。長編『河の畔に住む女たち』(1985)が絶筆となった。

[青木順三]

『桜井正寅訳『汽車は遅れなかった』(1974・三笠書房)』『小松太郎訳『アダムよ、おまえはどこにいた』(1976・講談社)』『佐藤晃一訳『九時半の玉突き』(1965・白水社)』『神崎巌訳『道化師の告白』(1966・冬樹社)』『尾崎宏次訳『女のいる群像』(1976・早川書房)』『藤本淳雄訳『カタリーナの失われた名誉』(1975・サイマル出版会)』『小松太郎訳『保護者なき家』(角川文庫)』


ベル(Alexander Graham Bell)
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Alexander Graham Bell
(1847―1922)

アメリカの電話発明者。スコットランドエジンバラに生まれ、エジンバラ大学で学んだのち、ロンドン大学で医学を研究した。ヘルムホルツの音響学に関心を抱き、1870年、父Alexander Melville Bell(1819―1905)とともにカナダに渡り、1871年アメリカに移住後、音声のメカニズムに興味をもち、やがて電気通信に心をひかれるようになった。父が話術教育家であったので、彼もボストンに聾唖(ろうあ)学校を経営し、1873年からボストン大学の音声生理学教授となった。同時に電話の実験を始め、1876年電磁型送受話器の特許を得た。それは送受話器とも、電磁石の極の近くに薄い鉄板を振動しうるように取り付けたもので、音声が振動板を振動させると、誘導電流により受端で音声が再生される。この発明をもとに1877年ベル電話会社(AT&Tの前身)を設立、またこの発明に与えられたボルタ賞を基金としてボルタ研究所(現、ベル研究所)を創設し、聾唖教育に尽力した。そのほか、光線電話の研究(1880)、蓄音機の改良(1887)、飛行機の研究など多方面な業績があり、1882年アメリカに帰化した。

山崎俊雄


ベル(Sir Charles Bell)
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Sir Charles Bell
(1774―1842)

イギリスの生理学者、外科学者。エジンバラ生まれ。兄J・ベルに医学を学び、エジンバラ大学を卒業。1804年ロンドンに移り、1812年ウィンドミルストリート解剖学校教師となり、解剖学を実施して研究した。またミドルセックス病院の外科医を務め(1812~1836)、1824年には王立外科医大学の解剖学・外科学教授に任命され、その講義は好評を博した。1831年サーに叙せられ、1836年エジンバラ大学外科学教授となった。脊髄(せきずい)の前根は運動を、後根は知覚をつかさどることを実験的に証明したが、このことはフランスのマジャンディもベルとは独立に証明したため「ベル‐マジャンディの法則」といわれる。ベル麻痺(まひ)とよばれる顔面神経麻痺は彼の名にちなむ。『脳解剖の新思想』A New Idea of the Anatomy of the Brain(1811)、『人体の神経組織』The Nervous System of the Human Body(1830)などの著書がある。

[大鳥蘭三郎]


ベル(John Bell)
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John Bell
(1763―1820)

イギリスの解剖学者。C・ベルの兄。エジンバラに生まれ、1779年エジンバラ大学を卒業。その後、各地を旅行してエジンバラに戻り、同大学の解剖学、外科学、産科学の教授となった。絵画をよくし、弟チャールズとともに著した『人体解剖学Anatomy(全3巻、1793~1802)には自ら挿図を描いた。1801~1807年に刊行された『外科学原理』Principles of Surgery(全3巻)は広く読まれた。

[大鳥蘭三郎]


ベル(電鈴)
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電鈴

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベル」の意味・わかりやすい解説

ベル
bel

波動のエネルギーの流れ (音の強さ,電力など) または振幅 (音圧,電圧など) の大きさのレベルを表わす単位。記号は B 。単位名は A.G.ベルの名にちなむ。彼は音波や電信の伝送中の減衰が人間の感覚には対数的であることに着目し,流れ I のレベル N ベルを次のように定義した。

N= log 10(I/I0)

I0 は波動のエネルギーの流れの基準値である。また,波動のエネルギーの流れは振幅の2乗に比例するので,振幅の基準値を P0 とするとき,振幅 P のレベル n ベルは次式で与えられる。

n=2 log 10(P/P0)

ベル単位では数値が小さくなりすぎるので,実用上はベルの 10分の1であるデシベルがおもに用いられ,エネルギー流のレベル N デシベル,振幅のレベル n デシベルはそれぞれ次式で与えられる。

N=10 log 10(I/I0),n=20 log 10(P/P0)

基準値 I0P0 のレベルは0デシベルである。

ベル
Bell, Andrew

[生]1753.3.27. セントアンドルーズ
[没]1832.1.27. チェルトナム
スコットランド生まれの牧師,教育家。助教法の開拓者の一人。大学卒業後,家庭教師として北アメリカ植民地バージニアに渡り,タバコ栽培で財をなした。1781年に帰国し,1785年アングリカン・チャーチイギリス国教会)から叙任された。1787年インドのマドラス(→チェンナイ)に赴き,孤児学校で助教法を初めて導入。これは優秀な子供に学習進度の遅い子供を指導させるもので,直接には教師不足の対策として考え出されたものであった。1797年ロンドンに帰り,『教育の実験――マドラスの男子孤児院における』An Experiment in Education, Made at the Male Asylum of Madrasを発表。1811年,国教会主義全英貧民教育振興協会 The National Society for Promoting the Education of the Poor in the Principles of the Established Churchを設立して,自分の創案した教育技法の実践に努めた。莫大な財産をスコットランドの教育振興のために遺贈した。

ベル
Bell, Andrew

[生]1726. エディンバラ
[没]1809.5.10. エディンバラ
イギリス,スコットランドの銅版画家。1768年,印刷工のコリン・マクファーカーとともに『ブリタニカ百科事典』を創始した。エディンバラで生まれ,生涯同地に住んだ。紋章プレートやイヌの首輪などに文字や名前,クレスト(紋)を彫ることをなりわいとして,つつましく暮らしていた。当時,版画家として高い評価を得ることはなかったが,今日では『ブリタニカ百科事典』の初版,第2版,第3版や,フランスのジョルジュ=ルイ・ルクレール・ビュフォン伯の『博物誌』(1781以降)のウィリアム・スメリーによる英訳本に使われた図版の多くが,高く評価されている。『ブリタニカ百科事典』を制作するにあたって,ベルとマクファーカーの間でどのような取り決めがあったかは不明だが,スメリーに初版の編集を依頼する手紙を書いたのはベルであり,終生にわたって『ブリタニカ百科事典』への関心は衰えることがなかった。マクファーカーと所有権を共同所有していたが,1793年にマクファーカーが死去すると,全版権を単独所有した。

ベル
Bell, Daniel

[生]1919.5.10. ニューヨーク
アメリカの社会学者。ニューヨーク市立大学で学士号を取得,雑誌『ニューリーダー』 The New Leader (1939~41) ,『コモンセンス』 Common Sence (41~49) ,『フォーチュン』 Fortune (48~58) を編集。シカゴ大学,コロンビア大学を経て,ハーバード大学教授。研究内容は社会変動論,政治社会学であるが,『イデオロギーの終焉』 End of Ideology: On the Exhaustion of Political Ideas in the Fifties (65) にみられるように,未来社会としての脱工業化社会に関するものも多い。政治がもはやイデオロギー的情熱によって動かなくなった以上,政治を動かすものは知的テクノロジーであり,社会計画や社会指標による社会科学的テクノロジーの発達が望ましいとした。また彼の脱工業化社会論は,いわゆる情報化社会の特徴を示すものとして日本にも多くの影響を及ぼしている。主著『一般教育の改革』 The Reforming of General Education (66) ,『アメリカにおけるマルクス主義』 Marxian Socialism in America (67) 。

ベル
Böll, Heinrich

[生]1917.12.21. ケルン
[没]1985.7.16. ランゲンブロイヒ
西ドイツの小説家。書店に勤めていたが,1939年第2次世界大戦に応召,歩兵として4度も負傷し,この戦争体験が文学の出発点となった。 51年「47年グループ賞」,67年ビュヒナー賞を受賞,71~74年国際ペンクラブ会長。 72年ノーベル文学賞受賞。カトリック作家として読者層はきわめて広い。処女作『列車は定時に発着した』 Der Zug war pünktlich (1949) 以下,短編集『アダムよ,おまえはどこにいた』 Wo warst du,Adam? (51) ,小説『そしてなにも言わなかった』 Und sagte kein einziges Wort (53) ,『保護者なき家』 Haus ohne Hüter (54) ,『九時半の玉突き』 Billard um halbzehn (59) ,『ある道化師の意見』 Ansichten eines Clowns (63) ,『貴婦人のいる群像』 Gruppenbild mit Dame (71) ,『川辺の前の婦人』 Frauen vor FluBlandschaft (85) など。

ベル
Bell, Alexander Melville

[生]1819.3.1. イギリス,スコットランド,エディンバラ
[没]1905.8.7. アメリカ,ワシントンD.C.
イギリスの,のちにアメリカの音声学者,雄弁術教師。音声学と話法治療の権威であった。 A.G.ベルの父。 1843~65年エディンバラ大学で,65~70年ロンドンのユニバーシティ・カレッジで雄弁術を講義,70年カナダに渡りオンタリオ州キングストンのクイーンズ・カレッジで言語学を講義。ベルの最大の,そして独創的な学問上の貢献は,「視話法」 (→ビジブルスピーチ ) の発明で,この視話法は,音声学や雄弁術の教育などに貢献したばかりでなく,国際語の表音アルファベットや聾唖教育用の図式記号の開発にも基礎的に役立った。主著『視話法-万国字母の学』 Visible Speech: the Science of Universal Alphabetics (1867) 。

ベル
Bell, Alexander Graham

[生]1847.3.3. スコットランド,エディンバラ
[没]1922.8.2. カナダ,ベンブレー
アメリカの物理学者,電話の発明家。雄弁術の権威として知られた A. M.ベルの子。エディンバラ大学やロンドン大学で聴講したが,ほとんど独学。エルジンの学校教師として音楽,雄弁術を教えた。 68年父の助手となってロンドンやアメリカで働いたが,健康を害しカナダに移住 (1870) 。その後,ボストンで聾学校開設 (72) 。翌年ボストン大学音声生理学教授。アメリカ地理学会会長 (98) 。ボストン時代,音声を電気的に伝える方法を研究し,磁石式電話機を発明 (76年特許) 。のちベル電話会社 (ATTの前身) を設立。生涯,聾唖者教育に献身したほか,蓄音機,電報技術,光線電話器 (フォトホン) ,空中乗物など多くの発明,改良を行なった。

ベル
Bell, Sir Charles

[生]1774.11. エディンバラ
[没]1842.4.28. ウースター,ノースハロー
イギリスの医師で解剖学者。エディンバラ大学卒業後,兄ジョンの指導で主として解剖学の研究に専心したが,1804年ロンドンに移住。 14年ミドルセックス病院に勤務,22年間診療に専念した。その間,15年にブリュッセルにおもむき,ウォータールーでの戦傷者の治療にあたった。 29年にロイヤル・ソサエティ賞を受賞,31年ナイトに叙され,36年エディンバラ大学の教授に戻った。 11年に『新しい脳解剖の思想』 New Idea of Anatomy of the Brainを発表,脊髄神経の前根は遠心性で運動を司り,後根は求心性で感覚を伝えることを明らかにしたが,同じことをフランスの F.マジャンディが 11年後に報告したので,現在ではベル=マジャンディの法則と呼ばれている。

ベル
Bell, Georg Kennedy Allen

[生]1883.2.4. ハトリング島
[没]1958.10.3. カンタベリー
イギリス国教会の指導者。カンタベリー大聖堂の主教座聖堂主任司祭 (1924~29) ,チチェスター教区主教 (29) ,全イギリス主教協議会の主事 (30) をつとめる。ヒトラーによるユダヤ人迫害が始ると,彼は,ユダヤ人や非アーリア系キリスト教徒のための避難所をイギリスに確保するかたわら,ナチス政権に抵抗していたドイツ告白教会と緊密な協力関係を結んだ。また長期にわたり世界教会運動に活躍。実践的キリスト教のための国際協議会の議長 (34~36) ,世界教会協議会の中央委員会議長 (48~54) などもつとめた。主著"Christian Unity,the Anglican Position" (48) ,"The Kingship of Christ: the Story of the World Council of Churches" (54) 。

ベル
Berr, Henri

[生]1863.1.31. リュネビル
[没]1954.11.19. パリ
フランスの歴史家。エコール・ノルマル・シュペリュール (高等師範学校) 卒業後,大学教授資格を得,学位論文『哲学の未来』L'Avenir de la philosophie,esquisse d'une synthèse des connaissances fondées sur l'histoireを発表。 1900年『史学総合雑誌』 Revue de synthèse historiqueを創刊。 1920年『人類の発展』L'Évolution de l'humanitéと題する叢書を創刊してその監修をも兼ね,時間と空間に還元される思想と人間活動の多様な側面を,科学的法則に従って追究することを目指した。

ベル
Bel

セム語で「主」を意味し,神の呼称に用いられたバールのバビロニア語形。エンリルマルドゥク,アッシュルなど,有力神の称号として用いられた。ギリシア語訳旧約聖書で,『ダニエル書』に付加された部分には,ペルシアのキュロス王の治下に預言者ダニエルが,バビロンでベル神の偶像に仕える祭司たちの主張 (この像が毎日供物に捧げられる食物を食べるという) が,嘘であることを暴露して,その崇拝をやめさせたという有名な話が物語られているが,このベルはマルドゥクである。ベルの妻の女神はベリトと呼ばれた。

ベル
Bell, Clive Howard

[生]1881
[没]1964
イギリスの美術評論家。絵画から発想した新しい芸術観に基づき,近代美術評論の形式を確立した。主著『形而上学的仮説』 The Metaphysical Hypothesis (1923) 。

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