アゼルバイジャン共和国(読み)アゼルバイジャン(その他表記)Republic of Azerbaijan 英語

デジタル大辞泉 「アゼルバイジャン共和国」の意味・読み・例文・類語

アゼルバイジャン(Azərbaycan/〈英〉Azerbaijan)

南西アジアのカフカス山脈南部、カスピ海南西岸の地域。アゼルバイジャン共和国とイラン領アゼルバイジャン州とに分かれている。
南西アジア、カフカス地方の国。正称、アゼルバイジャン共和国。首都バクー。石油の産出が多い。1991年、ソ連の解体に伴い独立。人口1012万(2021)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アゼルバイジャン共和国」の意味・わかりやすい解説

アゼルバイジャン共和国
あぜるばいじゃんきょうわこく
Republic of Azerbaijan 英語
Azerbaijchan Respublikasy アゼルバイジャン語
Азербайджанская Республика/Azerbaidzhanskaya Respublika ロシア語

南西アジア、カスピ海に面する共和国。かつてはソビエト連邦を構成する15共和国の一つ、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国Азербайджанская ССР/Azerbaidzhanskaya SSRであったが、ソ連崩壊(1991年12月)に先だつ1991年2月国名を変更してアゼルバイジャン共和国となり、同年8月独立を宣言した。西はアルメニア共和国、北はジョージアグルジア)とロシア、南はイランに接し、東はカスピ海に面する。面積は8万6600平方キロメートル、人口は883万2000(2009推計)、950万(2014年国連人口基金)。首都はバクーで人口191万7000(2008推計)。共和国内に、ナヒチェバン自治共和国ナゴルノ・カラバフ自治州を含み、それぞれ主要民族をナヒチェバン、カラバフ民族として構成されている。前者は南西部のイラン国境沿いに飛び地状に位置し、後者はアルメニア共和国に近い山岳地帯を占める。

[渡辺一夫・木村英亮]

自然

国土のなかばは山地で、北は大カフカス山脈の東部(最高点4466メートル)、西は小カフカス山脈に接し、南はイラン国境、東はカスピ海に面している。主要河川はクラ川とその支流のアラクス川で、東に流れてカスピ海に注ぐ。カスピ海岸には西から東にアプシェロン半島が突出し、その南岸に首都バクーがある。地形の複雑さを反映し、気候も平野の乾燥した亜熱帯気候から山頂の亜寒帯気候までを含む。平野部では年平均気温14.5℃、1月平均0~3℃、7月26℃前後であり、年降水量は150ミリメートル程度である。

[渡辺一夫・木村英亮]

歴史

第三次、第四次のロシア・トルコ戦争と相前後して、イランとの間のギュリスタン講和(1813)およびトルコマンチャーイ条約(1828)によりイラン領アゼルバイジャンと分かれ、帝政ロシアの占領下に入った。アゼルバイジャンの中心バクーの石油生産は1872年2300トンから1901年1140万トンへと急増、世界産出量の半分を占めた。バクーは、1883年ジョージアのチフリス(現、トビリシ)と、1900年ロシアの中心部と、それぞれ鉄道で結ばれ、ザカフカス(カフカス山脈南部地方)全域から多民族の石油労働者が集中し、労働運動が盛んになり、1905年革命においてもこの地域の運動の中心となった。

 1917年の二月革命後、ロシア・ペトログラードの臨時政府はザカフカス特別委員部を設けたが、バクー・ソビエト(社会主義者を中心とした革命派によってつくられた労働者・農民・兵士の評議会)も成立し、十月革命期バクーではこれが政権を握った。しかしアゼルバイジャンにはバクー以外に大工業中心地はなく、他の地域では農民の支持を得たムスリム民族政党ムサバトの勢力が強かった。ムサバトはジョージアのメンシェビキ(社会民主党右派)、アルメニアのダシナクツチュンとともにザカフカス委員部を組織し、1918年4月にはザカフカス連邦共和国を結成したが、これは、内部対立のため1か月で解体した。他方、バクー・ソビエトは1918年4月アルメニア人シャウミヤンStepan G. Shaumyan(1878―1918)を議長とするバクー人民委員会議を創設し、石油工業、銀行、カスピ海商船隊の国有化、土地改革などを次々に布告した。しかしここでは都市の多民族労働者とアゼルバイジャン農民との関係がむずかしく、シャウミヤンら指導者26人は反革命軍とイギリス軍によって1918年9月に虐殺された。バクーに新たに成立したムサバトの政府は、1920年ロシアのソビエト政府が国内戦に勝利し、イギリス干渉軍が撤退するとたちまち危機に陥り、4月28日に赤軍(ロシア革命後の1918年に創設されたロシア革命軍)の援助のもとにソビエト政府が成立した。1922年、アゼルバイジャン共産党キーロフの指導によってジョージア、アルメニアとザカフカス連邦共和国を創設、12月末、この共和国とロシア、ウクライナベラルーシ(白ロシア)でソビエト連邦を結成した。

 ソビエト政府のもとで、1930年農民の生産協同組合への組織化、すなわち全面的集団化が始められる。1929年当時バクーの石油労働者の43.6%はロシア人でアゼルバイジャン人は13.5%にすぎず、労働者と農民との連携が弱かったため、集団化は非常な困難のなかで激しい階級闘争を伴いつつ進められたが、1937年には農家戸数の86.5%がコルホーズに加入した。石油生産も1920年には290万トンに落ちたが、1928年には770万トンと第一次世界大戦前の水準を回復、1934年1920万トンと増大し、第二次五か年計画末の1937年にはソ連の石油生産の4分の3を生産、石油工業のための機械製作工業も発展した。また、水力発電、化学工業、繊維工業、食料品工業はとくに成長した。このような成果を基礎として1936年に新しい憲法が定められ、ザカフカス連邦共和国は解体、アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアの三つの共和国がそれぞれ直接にソビエト連邦を構成することになった。

[渡辺一夫・木村英亮]

アゼルバイジャン紛争と独立

1980年代後半、ソ連でペレストロイカ(改革)が進行するなか、1988年2月アゼルバイジャン共和国ナゴルノ・カラバフ自治州に住むアルメニア人が、同州のアルメニア共和国への帰属替えを要求してデモを行った。これはたちまちアゼルバイジャン、アルメニア両方の民族感情を刺激し、排外主義を生み、ついには暴力的な衝突を引き起こし、いわゆるアゼルバイジャン紛争ナゴルノ・カラバフ戦争)が発生した。さらにソ連政府の対応は、両共和国に不満を残し、ソビエト連邦からの離脱要求を高めることになった。1989年9月アゼルバイジャン最高会議は、ソ連の構成共和国のなかでもっとも早く共和国の主権決議を採択した。それに対して1990年1月ソ連軍がバクーを武力制圧したが、これはソビエト連邦政府に対するアゼルバイジャンの反感をいっそう強めた。そして1991年ソ連の八月クーデター後の9月30日に、アゼルバイジャン最高会議はソ連からの独立宣言を採択した。1991年12月ソ連解体とともに独立国家共同体(CIS)に加盟した。1992年6月大統領に選出されたエリチベイAbulfaz Elchibey(1938―2000)は急進的な民族主義路線をとったため、軍部との関係が悪化し、1993年6月反政府派の蜂起(ほうき)で首都から逃亡、同年10月3日ヘイダル・アリエフHeydar Aliyev(1923―2003)が大統領に当選した。1995年11月の議会選挙では大統領アリエフの与党「新アゼルバイジャン」が圧勝、さらに11月12日に行われた国民投票で新憲法が採択されたが、これにより大統領の権限が大幅に強化された。2003年10月の大統領選挙では病気のためアリエフが出馬を辞退、長男イルハム・アリエフIlham Heydar ogli Aliyev(1961― )を後継に指名し当選した。彼は2008年10月、2013年10月の大統領選挙でも当選している。

 大統領は国民の直接選挙で選ばれ、任期は5年。2009年3月の国民投票で大統領の3選を禁止する憲法の規定が削除された。議会は一院制で議席数は125、任期は5年。首相は大統領が任命する。

 ナゴルノ・カラバフ戦争は、1993年5月26日、ロシア、アメリカ、トルコの調停提案をアゼルバイジャン、アルメニアの両国が受諾した後も続き、同年7月にアルメニアがナゴルノ・カラバフ自治州ばかりでなくその東のアグダムまで占領しており、アゼルバイジャンは実効支配していない。1994年5月16日、両国の国防相と自治州武装勢力代表がモスクワで会談し、全面停戦に合意した。この停戦の監視についてアゼルバイジャンでは、ロシアよりも全欧安保協力会議に期待している。その後も断続的に和平交渉が行われているが解決への道筋はみえていない。

 対外関係では、1992年3月2日に国連に加盟した。同年には中央アジア5か国、イラン、トルコなど10か国で経済協力機構(ECO)を形成し、ロシア、トルコ、ルーマニアなど11か国で黒海経済協力機構(BSEC)を組織した。またトルコとは1994年2月友好全面協力協定に調印し、北大西洋条約機構(NATO)とは同年5月に「平和のためのパートナーシップ(PfP)」協定の枠組み文書に調印した。2006年には、1997年以来アゼルバイジャン、ジョージア、ウクライナ、モルドバの4か国で連絡会議を開いてきた国家連合GUAMを「民主主義と経済発展のための機構GUAM」と改称し、反ロシア的連合として再組織した。2008年の軍事予算は12億5800万ドル。徴兵制で総兵力数は6万6940。陸軍5万6840、海軍2200、空軍・防空軍7900。

[渡辺一夫・木村英亮]

産業・経済

石油の生産はバクーを中心に行われ、1940年にはソ連の石油産出量の7割を生産したが、第二次世界大戦後はウラル、さらに西シベリアの油田開発によってソ連内での比重が下がり、1975年には1717万トンと1913年の2倍以上になったとはいえ、3.5%にまで落ち込んだ。ソ連解体後、1992年には国の中央指令システムの崩壊、CIS諸国間の伝統的な連携の弱体化によってアゼルバイジャンの経済活動は悪化した。市場経済を基礎とした構造に改めようとしたが、依然として経済における国家の役割は大きかった。石油関連の機械製作がアゼルバイジャンで行われていたため、経済的混乱は、その機械に頼っていたCIS全体の石油生産にとってマイナスとなっていた。また、石油、天然ガスのパイプラインに関して、自国経由を主張するロシアに反対した。カスピ海の石油開発についても、西側資本との合弁事業として進めようとしたが、ロシアは自国企業のルークオイルなどの参加を求めていた。1994年9月、米・英・ロ・日など11社の国際企業連合設立で具体化したバクー沖の大油田開発計画が進められ、1996年より生産が開始された。2006年6月にカスピ海の石油をジョージア(トビリシ近郊)経由でトルコのジェイハンまで輸送する総延長1760キロメートルに及ぶBTCパイプラインが完成し、同年7月から本格的な輸送が始まった。2006年12月にはバクーからトルコのエルズルムに達する天然ガスパイプラインも完成している。その他、鉄、銅、コバルトも埋蔵しており、農業では綿、ブドウ、小麦などの栽培が盛んである。

 人口増加率が高いため、住民1人当りの所得は、ソ連時代の1989年でも構成共和国中最低であった。その後アルメニアとの民族紛争、市場経済化などの混乱によって、さらに下がったが、1990年代なかばからカスピ海の油田開発などで経済は好転した。国内総生産(GDP)は740.1億ドル、1人当りGDPは6800ドル(2014)となっている。

 貿易額は輸出218億2900万ドル、輸入91億8800万ドル(2014年CIS統計委員会)。おもな輸出品目は石油・天然ガス(90%)、石油製品、おもな輸入品目は機械設備、食料品、車両・スペアパーツ類などである。おもな輸出相手国はイタリア、インドネシア、タイ、ドイツ、イスラエル、おもな輸入相手国はロシア、トルコ、イギリス、ドイツ、ウクライナである。

 1992年8月15日に独自通貨マナトが導入され、しばらくルーブルと併用されていたが、1994年1月1日からマナトが唯一の通貨となった。

[渡辺一夫・木村英亮]

住民

アゼルバイジャン人は1959年の67.5%から、1989年には82.7%に増加していたが、独立後はアルメニア人、ロシア人が減り、現在は9割前後になっていると思われる。その他レズギン人などである。おもな宗教はイスラム教シーア派である。

[渡辺一夫・木村英亮]

教育・文化

革命前には住民の9割までが非識字者で、大学や学術機関はまったくなかった。1929年それまでのアラビア文字による表記にかわってラテン文字による表記が導入されたが、1940年にはキリル文字(ロシア文字)に基づく文字にかえられ、非識字者は一掃され、大学の学生数は1993/1994年には12万8200人となった。1991年12月にラテン文字化に着手、2001年8月キリル文字は全面的に廃止された。公用語はアゼルバイジャン語。

 アゼルバイジャンの教育制度は小学校4年、中学校5年、高等学校2年の四・五・二制で、その上に大学4年がある。義務教育は9年間である。大学はバクー国立大学、アゼルバイジャン国立文化・芸術大学などがある。

 新聞にはアゼルバイジャン語紙のエキスプレス、レスプブリカ、英語紙のバクー・サンなど、通信社に国営アゼルバイジャン通信、トゥラン通信などがある。放送には国営のアゼルバイジャン放送(テレビ、ラジオ)のほかに民放のANSなどがある。

[渡辺一夫・木村英亮]

『小松久男・梅村坦他編『中央ユーラシアを知る事典』(2005・平凡社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「アゼルバイジャン共和国」の意味・わかりやすい解説

アゼルバイジャン共和国 (アゼルバイジャンきょうわこく)
Azerbaidzhan

基本情報
正式名称=アゼルバイジャン共和国Azerbaidzhan Respublikasy/Republic of Azerbaijan 
面積=8万6600km2 
人口(2010)=905万人 
首都=バクーBaku(日本との時差=-5時間) 
主要言語=アゼルバイジャン語,ロシア語,アルメニア語 
通貨=マナトManat

ソ連邦構成共和国の一つであったアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国Azerbaidzhan Sovet Sosialist Respublikasy(ロシア語ではAzerbaidzhanskaya SSR)が,1991年8月アゼルバイジャン共和国として独立し,ソ連邦解体後の93年9月独立国家共同体(CIS)に加盟した。北は大カフカス山脈の天険とダゲスタン地方,西はグルジアとアルメニアの両共和国,東はカスピ海に接し,南のアラス(アラクス)川とタリシ山脈を挟んでイラン領アゼルバイジャンと対している。国内にはナヒチェバン自治共和国(1924形成)とナゴルノ・カラバフ自治州(1923設置)があり,国内は行政上59地区,11都市に分けられている。民族構成はアゼルバイジャン人90%,ダゲスタン諸族3.2%,ロシア人2.5%,アルメニア人2.3%,その他2%である(1995推定)。ソ連邦解体前の1989年センサスではロシア人,アルメニア人がそれぞれ約6%を占めていた。アゼルバイジャン人は,この地方の古い住民であるアルバニア人,メディア人などと,新来のスキタイ・キンメリア人,トルコ人,ペルシア人などとの混血によって形成されたといわれ,アゼルバイジャン語を話す。人口は旧ソ連期の1979年にソ連領内に548万,うち471万がアゼルバイジャン共和国に住んでいた。

 1980年工業生産高は1940年比12倍,1913年比72倍で,鉱工業生産高が国内総生産の約24%(1994)を占める。このうちで主座を占めるのは,バクー油田地帯の採油,石油精製,天然ガスおよび石油化学工業で,ほかに電力,鉱業,化学,機械,金属等の重工業,繊維,農畜産物加工等の軽工業も発展している。バクー,ギャンジャ(旧キーロババード)のほか,新興のスムガイト,ミンゲチャウル,ステパナケルト,アリ・バイラムリ,ダシケサン等がその中心である。一方,80年農業生産高は40年比5.5倍となっているが,国内総生産の2.2%(1994)である綿花栽培を主軸とし,ほかに小麦,タバコ,野菜,ブドウ,果実,茶等を産する。畜産では牧羊が主で伝統的な山岳放牧方式による。工業国への転換は著しく,都市人口も89年現在,全人口の54%にのぼっている。文化面の中心はバクーであるが,共和国全体に教育が重視されており,識字率は97%(1989)。出版活動も盛んで,80年の書籍出版点数は1226,計1180万冊を数え,うちアゼルバイジャン語のものが793点,900万冊を占めていた。ラジオ,テレビ放送はアゼルバイジャン語,ロシア語,アルメニア語で行われている。近年,アゼルバイジャン民族の固有の伝統・文化への関心の高まりも顕著である。

1988年2月アゼルバイジャン共和国ナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア共和国への帰属替えを求めるアルメニア人の運動が高揚し,これに反発したアゼルバイジャン人との緊張の中で,スムガイト事件が勃発,内外に大きな衝撃を与えた。ナゴルノ・カラバフをめぐる対立は,アルメニア,アゼルバイジャン両共和国の本格的な民族戦争にエスカレートし,双方からの大量の難民の問題も深刻化した。90年1月バクーでのアルメニア人へのポグロムを機に,ソ連軍がバクーの武力制圧に突入,アゼルバイジャン人民戦線が武装抵抗を展開した。このバクー事件は,ソ連各地で共産党を脅かすほど発展した民族運動組織への見せしめであり,諸民族の連邦中央への不信感を高めた。91年8月ソ連保守派のクーデタ失敗後,アゼルバイジャン共和国は独立を宣言。9月共産党のA.N.ムタリボフが初代大統領となるが,92年6月人民戦線のA.エルチベイが大統領に当選した。しかし軍部のクーデタで追われ,93年6月H.アリエフ(ブレジネフ時代の保守派幹部,アゼルバイジャン共産党第一書記。ソ連のクーデタ失敗後,ナヒチェバンで復活)が権力の座に返り咲き,10月大統領となった(93年9月にはCISに加盟)。
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