改訂新版 世界大百科事典 「アニメーション映画」の意味・わかりやすい解説
アニメーション映画 (アニメーションえいが)
animated film
film d'animation[フランス]
ラテン語のanima(霊魂)から出たanimation(生命を吹き込むこと)の語源どおり,少しずつ変化させた絵(動画)を1コマずつ撮影し,映写することによって,それ自体は静止している絵を動いているように見せるトリック撮影およびそのようにして撮影されたトリック映画の総称。分解撮影によって現実の動きを定着する〈映画〉とは逆の工程がアニメーションの原理である。撮影素材は,絵,写真,切紙,また立体素材として人形や粘土細工など無数に考えられる。例えば人形劇をそのまま撮ったり,漫画や画集をモンタージュしたものは,アニメーションとは呼ばない。
歴史
映画に先立つ映画
〈動画〉への衝動は,1万年以上前のアルタミラの洞窟壁画にすでに見られ,また絵を投影することによって動きのイリュージョンを味わいたいという欲求はインドやジャワの〈影絵〉にあった。1644年,ドイツのイエズス会の神父A.キルヒャーが〈幻灯機〉を発明,セットされた2枚のガラス絵を左右に手早くスライドさせ,大食いの人物がブタに変わるといった〈動き〉のある映像が写し出された。日本では,江戸時代にオランダ人がもたらした幻灯機を使った〈おらんだエキマン鏡〉なる見世物に触発された小石川の染物上絵職人亀屋熊吉が,友人の医者高橋玄洋の助けで,その仕掛けの原理を利用した自前の器械を完成,池田都楽と名のって,1803年(享和3)に江戸で〈写絵〉と称する種板式幻灯を寄席で上演した。これはガラスに彩色絵をかいたもの(種板)を数台の幻灯機(フロ。熱をもった箱の表面が結露することからついた呼称)にセットし,それをかかえた数人の〈写絵師〉が種板を操って絵の動きを出すもの。光源は灯明からランプに移行。祭文語りや浄瑠璃語りがついて上演された。一方,光源を使わない,つまり映写をしないアニメーションの原初の形として,19世紀イギリスで発明された〈ソーマトロープ〉をはじめ,網膜の残像現象を利用した一連の科学玩具,〈ストロボスコープ〉〈フェナキスティスコープ〉〈ゾーエトロープ〉などがあり,さらにフランス人レノーÉmile Reynaudがゾーエトロープを改良した〈プラキシノスコープ〉に映写装置をつけ加え,92年,パリの蠟人形館で〈テアトル・オプチック(光学劇場)〉,または〈光の無言劇〉と称して,長いセルロイド・ベルトに600コマ以上の絵をカラーでかいたものをスクリーンに映写する大仕掛けな動く幻灯を興行した。フィルムに撮影してそれを映写する〈映画〉が発明される以前に,アニメーションの起源があったといえる。
史上初のアニメーション映画
フランスのL.リュミエールとアメリカのT.A.エジソンによって〈映画〉が発明された後,最初のアニメーション映画がアメリカのJ.S.ブラックトンによって作られたというのが通説になっている。黒板にチョークで顔をかいては消し,表情の変化やギャグを与えた《愉快な百面相》(1906)がそれである。ブラックトンはまた,1コマ撮りの技法によって家具が室内を駆け回る《幽霊ホテル》を作り,〈立体アニメ〉の先駆者の一人ともなった。《愉快な百面相》を見て,そのトリックを見破ったフランスのコールÉmile Cohl(1857-1938)は,フランス最大の映画会社ゴーモンのトリック撮影部主任となり,白紙に黒インキでかいた〈マッチ棒で組み立てたような〉単純なデザインのキャラクターによる動画を撮影し,ネガのまま映写して黒地に白の画面を作った。これが世界最初の〈漫画映画dessin animé〉の《ファンタスマゴリー》(1908)で,上映時間はわずか1分57秒だった。その後もコールは〈ファントーシュ〉という世界最初のアニメ・キャラクターを主人公にしたシリーズ(1908-10)を数多く作り,これが最初のアニメーション・シリーズとなった。アメリカでは1909年に《リトル・ネモ》で知られる人気漫画家マッケーWindsor McCay(1869-1939)が,コールの漫画映画に触発されて《恐竜ガーティ》(1909)を作った。白地に黒の線で背景まで同じ1枚の紙にかき込まれ,作者(実写)の命ずるままに恐竜がサーカスのゾウのように芸をする〈漫画映画animated cartoon〉である。その後もマッケーはアニメーションによるSF映画,怪奇映画,文化映画などの実験を続け,1918年には動画枚数2万5000枚に及ぶ世界最初の長編《ルシタニア号の沈没》(ニュース,記録映画の代りともいうべき再現アニメーション)を作った。
セル・アニメの誕生
1914年に,アメリカでジョン・R.ブレイとアール・ハードが透明なセルロイド板に動画をかく〈セル・アニメ〉を考案し,これによって初めてアニメーションの技術が完成される。このセル・アニメの発明により,動画部分を静止した背景から切り離してかけるようになったため,流れ作業による分業が可能となり,アニメーション映画の飛躍的な発展の礎が築かれた。
各国のアニメーション映画
アメリカ
初期のアメリカの漫画映画は新聞雑誌連盟Newspaper Syndicatesのスポンサーを得て発展した。コミック・ストリップと呼ばれた新聞連載漫画のキャラクターが,サイレント時代の漫画映画の主流になったのもそのためであった。まずパット・サリバンの《フェリックス・ザ・キャット》(1917-22)がある。ほぼ同時期にジョン・ブレイの,世界初の色彩(二色カラー)漫画映画《ザ・デビュー・オブ・トーマス・キャット》(1916)が作られている(この後,色彩漫画映画は1930年の《キング・オブ・ジャズ》のオープニングのウォルター・ランツによるアニメーションまで作られていない)。次いでフライシャー兄弟の《道化師ココ》(1916-29),ポール・テリーの《アルファルファじいさん》(1921-29)等々が登場。こうして,スタートの時点で新聞漫画の映画化や漫画的キャラクターを主人公にしたシリーズが,笑いを好むアメリカの国民性に適合して,20年代には漫画映画は劇場の番組の一部として定着するようになった。セル・アニメの開発も早く,したがって企業化も早かった。その中でW.ディズニーは,アブ・アイクークスの協力を得て永遠のキャラクター,ミッキー・マウスを創造,その主演第4作《蒸気船ウィリー号》(1928)が世界最初のトーキー・アニメとなった。ディズニーはまた,世界最初のテクニカラー(三色法)によるアニメーション《花と木》(1932。クラシック音楽に合わせて自由奔放なアニメーションを展開した,有名な《シリー・シンフォニー》シリーズの1編)を,さらに37年には《シリー・シンフォニー》の1編《風車小屋のシンフォニー》で,最初のマルチプレーン・カメラを試用。背後を多層化した撮影台によって画面に奥行きを出すことに成功した。次いで世界最初の色彩長編漫画映画《白雪姫》(1937)を発表し,興行的にも大ヒットさせ,〈メリエスからチャップリンを含む映画的魔術の後継者〉とみなされ,〈アメリカ国民の神話と夢の担い手〉といわれるまでになる。ディズニーの開発・完成した音楽,色彩,ギャグ,物語性などにその後のアニメーション作家の大半が追随することになるのだが,ディズニー以前から独自の道を歩いていたフライシャー兄弟のみが,ニューヨークのナイトクラブの人気歌手ヘレン・ケーンをモデルにした《ベティ・ブープ》(1932-39),E.C.シガーの雑誌連載漫画の主人公である怪力の水夫《ポパイ》(1933-42)といった強烈なキャラクターの漫画映画シリーズを作り,荒っぽくナンセンスな笑いを提供し続けた。しかし,2本の長編漫画映画《ガリバー旅行記》(1939),《バッタ君町に行く》(1941)および劇画(コミック・ストリップ)の画調を生かした最初のアニメ《スーパーマン》(1941-42)を最後の輝きとして消えていった。質的には優れていた《バッタ君》の興行的失敗が直接の原因である。一方,ディズニーのほうは,さらに《シリー・シンフォニー》の集大成である空前の長編《ファンタジア》(1940)で世界最初のステレオ・サウンドを使用,音楽と動画の融合という壮大な野心作を完成する。
第2次世界大戦が始まろうとする1930年代末から40年代にかけて,ウォルター・ランツ製作の《ウッディ・ウッドペッカー》(1940-72),ウィリアム・ハンナとジョゼフ・バーベラ演出の《トムとジェリー》(1940-58),ロバート・マッキンソン,チャック・ジョーンズ,フリッツ・フリーレングらの演出による〈ワーナー漫画〉の《バッグス・バニー》(1938-64),《ロードランナー》(1949-68)等々,ほのぼのとしたディズニー漫画とは打って変わって猛烈な暴力性,破壊性をもち込んだ短編アニメが隆盛を極め,〈ハリウッド・カートゥーン・コメディ〉(ドタバタ漫画)の黄金時代を迎えた。この傾向はついにディズニー作品(《ドナルド・ダック》シリーズなど)さえもまき込んで50年代まで続く。
ディズニー・プロに反旗をひるがえして独立したスティーブン・ボサストウ,ジョン・ハブリー,ロバート・キャノン,アーネスト・ピントフらが,彼らのプロダクションUPAを結成したのも第2次大戦中である。ディズニーが完成した〈フル・アニメ〉に対し,意識的に動画数を省略した〈リミテッド・アニメ〉と呼ばれる技法によるロバート・キャノンの《ジェラルド・マクボインボイン》(1951-56),グラフィック・アートの中に詩情を漂わせたジョン・ハブリーの《ムーンバード》(1958)などの作品によって,従来のアニメとは異なる質のデッサンと動きを開発することに成功した。UPAのグラフィックな手法は,《八十日間世界一周》や《悲しみよ今日は》等々数多くの映画のタイトル・バックのアニメーションで知られるソール・バスをはじめ,ロバート・ブリア,スタン・バンダービーク,カーメン・ダビーノらの仕事に受け継がれているが,その一方では〈動き〉を省略する技術だけが,高騰する人件費の節約のためにのみ安易にテレビ時代のアニメに引き継がれた。
戦時中に隆盛を極めた暴力と破壊のギャグに満ち満ちた劇場用短編アニメは,狂気の極限ともいうべきテックス・アベリーの作品群(《太りっこ競争》1947など)を頂点とし,次いでフリッツ・フリーレングのパントマイム漫画《ピンク・パンサー》シリーズ(1964-69)を最後に衰退していく。
70年代に入って,ラルフ・バクシがポルノと暴力というアクチュアルな要素をとり込んだ,おとな向けの《フリッツ・ザ・キャット》(1972)や,登場人物のライブ・アクション(実写)をグラフィックに処理して,新しい映像効果をねらった〈ロートスコーピング技法〉による《指輪物語》(1978)などで試行錯誤を重ねつつも長編アニメに挑戦している。
アバンギャルドとフランスのアニメ
フランスでは,漫画映画のジャンルを確立したE.コールのあと,1920年代にアバンギャルド運動とともに,画家のF.レジェによる実験アニメ《バレエ・メカニック》(1925)などが生まれ,同じ時期にドイツのオスカー・フィッシンガー,ワルター・ルットマン,ハンス・リヒター,ユリウス・ピンシェウワー,スウェーデンのビギング・エゲリングといった画家たちが,例えば音楽と図形がシンクロナイズするようなアブストラクト・アート(抽象映画)を発表した。これは,以降のドイツのロッテ・ライニガーの世界最初の影絵アニメ《アクメッド王子の冒険》(1926),フランスのアレクサンドル・アレクセイエフの〈ピン・スクリーン〉《禿山の一夜》(1933),エクトル・オッパンとアントニー・グロスの実験的な《生きる歓び》(1936)などへと続く流れの源流で,アニメーションを漫画=大衆娯楽として発達させたアメリカとは対照的に,あくまでも純粋な美術的表現技術として受け止めたヨーロッパ的傾向が,このあたりからすでに際だって見られる。
その後もフランスでは,ポール・グリモーの独裁者を風刺した童話的な漫画映画《やぶにらみの暴君》(1953)およびその完全版として手直しされた《王様と鳥》(1979)や,ポーランド生れのワレリアン・ボロフチクの,単純なモノクロのデッサンの中に,時として強烈な赤を用いたりする残酷アニメ《カバール夫妻の芝居》(1967),ロラン・トポールの原画を〈切紙〉で動かしたルネ・ラルーのSFアニメ《ファンタスティック・プラネット》(1973。チェコとの合作)等々,いくつかの劇場用長編アニメが製作されたが,いずれも興行的な成功には至らなかった。ただ,フランス最初の長編アニメ《勇敢なジャンノオ》(1950)を作ったジャン・イマージュだけが,テレビも含めた数多くの商業性のある短編アニメを作り続けているが,質的には見るべきものはない。現在では《お嬢さんとチェロ弾き》(1965),《ノアの方舟》(1967)などの〈切紙〉短編作家ジャン・フランソワ・ラギオニーが,レベルの高い作品を作り続けている。
脱ディズニーとイギリスのアニメ
50年代には,ディズニー・スタイルから脱却しようとする動きが世界各国のアニメーション映画を活性化した。とくにイギリスでは,ドキュメンタリー映画の大家J.グリアソンが主宰する郵政局(GPO)映画班でその傾向の作品が積極的に試みられ,そこから,カメラを使わずにフィルムにじかにかくことによって映像を作った最初の抽象映画作家レン・ライの《カラー・ボックス》(1935)や,ライの影響を受けたN.マクラレンの短編《恋は翼に乗って》(1938)が生まれた(マクラレンは,この後カナダに渡って実験アニメの巨匠となった)。また,〈何も固有のスタイルにとらわれることはない。その作品のテーマに応じて選択すればよいのだ〉というジョン・ハラスとその夫人のジョイ・バチェラーが,ジョージ・オーウェルの風刺小説をアニメ化した《動物農場》(1954),UPA出身のカナダ人リチャード・ウィリアムズ(のちにブレーク・エドワーズ監督の劇映画《ピンク・パンサー》シリーズのタイトル・アニメを手がける)が,イギリスに定住して3年がかりで作った中編《小さな島》(1958),ザ・ビートルズを漫画的キャラクターおよび声の出演で登場させたポップ・アート的なジョージ・ダニングの《イェロー・サブマリン》(1967)などがあり,その後もディズニー漫画の動物キャラクターとは異なる,〈絵本的な〉イメージによるマーティン・ローゼンの《ウォーターシップダウンのうさぎたち》(1978)等々の劇場用長編アニメの成功作がある。
社会主義国
ソ連,ポーランド,チェコスロバキア,ユーゴスラビア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,東ドイツ,中国などの社会主義国では,国営スタジオをもち,国民の思想教育,児童の情操教育を前提として製作を続けてきた。国策という制約はあるものの,商業ベースに乗ることが絶対条件となる資本主義国の映画製作とはちがって,営利を度外視した自由な製作の場を作家たちに提供するというケースも多くなるために,それぞれの国民性を反映しながらも数々の実験的な作品が生まれていた。とくに東欧圏のアニメーションは,戦後の国際映画祭の賞をことごとく独占して,いちやく注目を浴び,その後のアニメーション映画史を書きかえるほど目覚ましい発展ぶりを示した。
ユーゴでは,〈残酷モダニズムの結晶〉といわれる短編《銀行ギャング》(1958)などのデュシャン・ブコチッチを中心としたザグレブ派のモダン・アートの作品群がある。
帝政ロシア期に世界最初の人形アニメといわれる《麗しのリュカニダ》(1912)をはじめ,ウラディスラフ・スタレビッチの一連の作品を生んだソ連では,イワン・イワノフ・ワーノの《せむしのこうま》(1947),レフ・アタマノフの《雪の女王》(1957)などの長編や,雪どけ以後のユーリ・ノルシュテインの作品群(《あおサギと鶴》1974,《霧につつまれたハリネズミ》1976,《話の話》1979)など,メルヘン的な夢幻の魅力に満ちたものが注目される。ポーランドでは,不条理劇の〈切紙〉作品で知られるヤン・レニツァ,陰惨なイメージの漫画映画の作家ワレリアン・ボロフチクなどがあげられる。この2人には,《むかしある時》(1957),《ドム》(1958)などの共作があるが,60年代にレニツァは西ドイツに,ボロフチクはフランスに移住。ボロフチクは劇映画に転向した。さらにナチ強制収容所を背景に,極限状況下の人間性をえぐり出した〈切紙アニメ〉の《点呼》(1970)の作家リシャルド・チェカワも注目されたが,のち劇映画に転じた。
〈ヨーロッパの人形芝居のゆりかご〉といわれるチェコでは,みずから人形劇団を主宰していたJ.トルンカが,1945年,国立映画アニメ・スタジオ(プラハ)の主任となって独自の人形アニメの世界を築き上げ,長編《皇帝のナイチンゲール》(1948),《バヤヤ王子》(1950),《真夏の夜の夢》(1959)や《二等兵シュベイク》シリーズ(1951-55),中編《天使ガブリエルと鵞鳥夫人》(1965)などで,人形映画のアニメートの壁を破ったみごとなテクニックを開拓して,〈第四次元の映画世界〉〈第8芸術〉(ジョルジュ・サドゥール)とまで呼ばれ,彼の下からは,チェコ人形劇の代表的キャラクターであるシュペイブルとフルビーネックをアニメ化した《探偵シュペイブル氏》(1956),《フルビーネックの夢》(1955)の演出を担当したブシェティスラフ・ポヤールが育った(ポヤールは59年に一本立ちし,《猫の話》(1960)などで〈切紙アニメ〉にも手を染めた)。首都プラハの国立映画アニメ・スタジオを本拠地としたトルンカ,ポヤールらに対し,モラビアのゴットワルドフ(現,ズリーン)に設立された国立人形映画スタジオを拠点とするカレル・ゼーマンと女流作家ヘルミナ・ティルロバは,実写の人間と人形を〈共演〉させる作品に独自のスタイルを築いた。ティルロバは人形がベビーベッドの赤ちゃんのまわりで,ほほえましいいたずらを重ねる短編《子守歌》(1947),ハンカチが持主の少年のあとをついていく《ハンカチの冒険》(1958)などで知られている。ゼーマンは,この〈虚実共演〉の方向をさらに発展させ,実写とミニチュア・セットを合成して画面全体を銅版画の調子に統一した,〈おとなの絵本〉ともいうべき長編特撮劇映画《悪魔の発明》(1957),《ほら男爵の冒険》(1961),《狂気の年代記》(1964)等々で,チェコ映画の名を世界的に高めた。トルンカの死後,やや沈滞ぎみのチェコ・アニメ界にあって,ゼーマンがアニメ(〈切紙〉)に戻り,長編《クラバート》(1977)などで,依然,活躍を続けている。
ルーマニアにはイオン・ポペスコ・ゴーポ(《教養七科》1958,《ホモ・サピエンス》1959),ハンガリーにはマッカシー・ギーラ(《ロマンチックな物語》1966)などがいる。
中国では,《西遊記》をもとにした中国最初の長編アニメ《鉄扇公主》(1941)を作った万籟鳴と万古蟾の双生児兄弟からアニメ史が始まる。革命後(1949),上海に設立された映画製作所に末弟の万超塵とともに入った兄弟は,それぞれ〈セル・アニメ〉〈切紙アニメ〉〈人形アニメ〉各部門の責任者となって中国アニメ界をリードする。万古蟾の京劇風長編《大あばれ孫悟空》(1962)の完成後,文化大革命が始まり製作は圧迫されたが,文革後,再建されたスタジオからは,初のシネマスコープによる長編《ナーザの大あばれ》(1979)が生み出され,国際的評価を得た。そのほか,〈水墨画アニメ〉という中国独特のジャンルがあり,例えば斉白石の水墨画を動画化した康澄の《おたまじゃくしは蛙の子》(1960)や,特偉の田園詩《牧笛》(1963)が秀作とされている。
マクラレンとカナダ
1939年,カナダに国立映画局が設立され,初代局長にJ.グリアソンが就任。その下で動画部主任となったN.マクラレンは,〈シネ・カリグラフ〉(《ヘン・ホップ》1942,《線と色の即興詩》1954)をはじめ,人間のコマ撮り(《隣人愛》1953),1枚の絵ができ上がるまでのプロセスを微速度(コマ撮り)撮影の手法で追ったもの(《灰色の若いめんどり》1948),サウンド・トラックの手がきによる〈音のカリグラフ〉(《算数あそび》1956)等々,前人未踏の作品群を世に送り出して〈実験アニメの魔法使い〉と呼ばれ,同時に後進の育成にあたり,のちにイギリス・アニメ界の代表的作家となるジョージ・ダニング,軽快な作風のライアン・ラーキン,重厚なスタイルのキャロライン・リーフ,立体アニメのコ・ホードマン,油粘土とビーズを素材として使うインド人のイシュー・パタル,晩年のバスター・キートンを主演に短編劇映画《レールロッダー(キートンの線路工夫)》(1965)を撮ったジェラルド・ポタートンら,多彩な人々がその門下から輩出した。一方,近年は商業的なアニメも盛んになり,ロック,オペラを使ったニルバーナ社製作の長編テレビアニメ《悪魔とダニエルねずみ》(1978)といった作品もある。
日本
国産漫画映画の誕生は,〈活動写真〉の輸入から18年後の1916年,北沢楽天を中心にした漫画雑誌《東京パック》の同人下川凹天,幸内純一と,洋画家の集りフュウザン会の企画経営者北山清太郎の3人から始まる。当時《凸坊新画帖》という肩書で公開されたE.コールらの作品の現物を分析して,手探りでそのトリックを解明するところからスタートした。次いで幸内純一門下の大藤信郎の〈千代紙映画〉(《馬具田城の盗賊》1926)が生まれ,やがて洋画,日本画を学びマキノ・プロを経てきた政岡憲三が登場し,《森の妖精》(1935),《べんけいとウシワカ》(1939)などの意欲作を発表するとともに,家内工業スタイルだったこの世界に,近代的な製作スタイルを導入して合理化を進めた。瀬尾光世をチーフ・アニメーターとする政岡映画の製作スタッフが,今日の日本のアニメ製作者の源流を形成したといえる。大部分のアニメは教育映画,国策PR映画の一端として製作され,作品として一人前扱いされないというのが当時の状況であった。戦時中に作られたアニメの中では,政岡憲三の珍しく時局色のない《くもとちゅうりっぷ》(1943),瀬尾光世の長編《桃太郎の海鷲》(1943)が出色で,それぞれ平和と戦争のシンボルとして今日なお命脈を保つ名作とされている。
戦後は,次の三つの事件を経て日本のアニメーションは大きく転換した。(1)藪下泰司の《白蛇伝》(1958)を最初とする〈東映動画〉による長編漫画がコンスタントに(年1回,夏休み用に)製作され,上映され始めたこと。(2)60年,久里洋二,柳原良平,真鍋博が〈三人のアニメーションの会〉を設立して,積極的な実験アニメの製作に乗り出したこと。(3)63年,漫画家の手塚治虫の虫プロが,毎週,国産テレビアニメの30分番組(《鉄腕アトム》)をスタートさせたこと。とくに虫プロ作品はテレビアニメの隆盛を促し,しだいに30分のテレビアニメはギャグからストーリー中心に移行し,やがて《アルプスの少女ハイジ》など,一年連続の児童文学ものが登場。この名作児童文学のアニメ化と並んで,同じ74年にSF宇宙戦争もの《宇宙戦艦ヤマト》が半年連続シリーズとして作られ,その後の連続テレビアニメの二大路線を築いた。《ヤマト》の総集編が77年に劇場公開されて大ヒット,これが劇場用長編アニメ競作の口火となり,松本零士原作,りんたろう演出の《銀河鉄道999》(1979)のような劇場の大画面を生かした映像美をたんのうさせる作品や,宮崎駿演出,大塚康生作画監督の《ルパン三世・カリオストロの城》(1979)のような緩急自在の作劇,痛快なアニメート,奇想天外なギャグなど,おとなも満足させる内容と技術をそなえた冒険アニメの快作も生まれた。製作本数だけは世界一という日本の商業アニメの濫作状況の中で,実験的な自主アニメも活発に製作され,久里洋二の一連のナンセンス・ギャグ・アニメ(《人間動物園》1962,《殺人狂時代》1967など)がまず海外で注目され,次いで古川タク(《Head Spoon》1970,《驚き盤》1975など),J.トルンカに師事した〈人形アニメ〉の川本喜八郎(《鬼》1972,《火宅》1979,など),岡本忠成(《ふしぎなくすり》1965,《虹に向って》1977,など)らが,各地の国際映画祭で受賞して世界的な名声を得た。
執筆者:岡田 英美子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報