パレスチナ・アラブ抵抗運動の指導者、政治家。エルサレム生まれ。1956年カイロ大学卒業。1951~1957年ガザのパレスチナ学生連盟の委員長。1957年エジプト軍予備将校となる。1957~1960年技術者としてクウェートに赴く。パレスチナ解放機構(PLO)の一組織ファタハFatah(アル・ファタハともいう。パレスチナ解放運動を表すアラビア語Harakat al-Tahrir al-Filastiniの頭文字を逆に読んだもの、アラビア語で勝利という意味もある)を率い、1968年にそのスポークスマンとなり、1969年にはPLOの議長に就任、以降、PLOの中心的人物として活躍する。1974年10月第四次中東戦争後のラバト首脳会議で、PLOがパレスチナ人の唯一正当な代表であることを認めさせ、1974年11月国連総会に初めて出席した。イスラエルの存在を否定することは不可能であるとの現実的認識にたち、パレスチナ問題の政治的解決を図ろうとしたが、最後まで武力闘争を主張する過激派との間に摩擦を生じた。1981年(昭和56)10月来日(その後も、1989年10月、1996年9月、1999年4月・10月、2000年8月に来日)。1982年6月のイスラエル軍のレバノン侵攻の結果、1982年8月、拠点であったベイルートからの撤退を余儀なくされた。1993年9月にパレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)をイスラエルと交わし、1994年にノーベル平和賞を受賞する。1996年1月に行われたパレスチナ自治選挙により、パレスチナ自治政府(PA)の長官(ライースRais)となった。1998年10月、アメリカの大統領クリントンの仲介で、イスラエル首相ネタニヤフとの中東和平実施の交渉に入り、合意文書(ワイ合意)に調印した。しかし、その後2001年に、対パレスチナ強硬派の右派政党リクードの党首シャロンがイスラエル首相となると、オスロ合意は崩壊。2002年3月以降、アラファトは、ヨルダン川西岸ラマッラーでの軟禁状態が続いていた。2004年10月体調をくずし病気治療のため同月29日パリに移り、ペルシー軍病院に入院。しかし、まもなく容態が悪化、11月初旬から昏睡(こんすい)状態となり、そのまま同月11日に死去。エジプトのカイロでの葬儀を経て、ラマッラーに埋葬された。本人は、生前、聖地エルサレムへの埋葬を希望していた。
[木村喜博]
『佐々木伸著『レバノン戦争――アラファトの90日』(1984・共同通信社)』▽『M・カパーナ著、村上能成訳『パレスチナ五十年の悲願――PLOアラファト議長会見記』(1991・日本テレビ放送網)』▽『ジャネット・ワラク、ジョン・ワラク著、読売新聞社外報部訳『中東の不死鳥アラファト』(1992・読売新聞社)』▽『臼杵陽著『中東和平への道』(1999・山川出版社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1929~2004
パレスチナ自治政府議長。別名アブー・アンマール。カイロ大学卒業後,クウェートで技師として働きながら,パレスチナ解放運動に従事。ファタハ指導者から1969年にパレスチナ解放機構(PLO)議長に就任。93年イスラエルと原則宣言を締結し,自治政府議長となる。94年ノーベル平和賞受賞。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加