ペレス(読み)ぺれす(英語表記)Carlos Andrés Pérez Rodríguez

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ペレス」の意味・わかりやすい解説

ペレス
Peres, Shimon

[生]1923.8.16?. ポーランド,ウィシュニエフ
[没]2016.9.28. イスラエル,ラマトガン
ポーランド生まれのイスラエル政治家。首相(在任 1984~86,1995~96),大統領(在任 2007~14)。1934年家族とともにパレスチナ移住。1947年,政治上の師となるダビッド・ベングリオンが指揮するシオニスト(→シオニズム)の軍事組織ハガナーに加わる。1948年5月イスラエルの独立に際し,ベングリオン首相のもと 24歳の若さで海軍司令官に就任。1952年国防次官を皮切りに 1965年まで国防省の要職を歴任した。1965年ベングリオン率いる新党ラフィ党に参加。1969~70年移民大臣兼占領地経済開発担当大臣,1970~74年運輸通信大臣,1974~77年国防大臣。1977年イツハク・ラビン首相辞任をうけ首相代行となり,ラフィ党など 3党が合併して発足したイスラエル労働党の党首にも就任。1984~86年リクードとの連立内閣で首相を務めた。1988年総選挙後も財務大臣としてリクードと連立内閣を組んだが,1990年連立を解消。1992年労働党党首の座をラビンに譲って総選挙に勝利し,新政権で外務大臣に就任。1993年のパレスチナ解放機構 PLOとのパレスチナ暫定自治協定調印後は,協定の実行に向けた交渉の先頭に立った。1994年,中東和平をともに推進したラビン,ヤセル・アラファト PLO議長とノーベル平和賞(→ノーベル賞)を共同受賞。1995年にラビンが暗殺されると首相に就任したが,1996年首相公選でリクードのベンヤミン・ネタニヤフに僅差で敗れた。2001~02年,シャロン政権で外相。2005年,労働党党首選に敗れたのち離党し,中道のカディマ党に入党。2007年から儀礼的な地位である大統領を務めた。2012年アメリカ合衆国の大統領自由勲章を受章。(→パレスチナ史

ペレス
Pérez, Antonio

[生]1540. マドリード
[没]1611.11.3. パリ
スペインの政治家。国王フェリペ2世に仕え,1567年イタリア担当の大臣となった。フェリペ2世の異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアの重臣 J.エスコベドを暗殺 (1578) 。翌年疑獄事件で逮捕され 11年間獄中で過した。 90年マドリードから逃亡,アラゴンに行きサラゴサ民衆の保護を求めた。その後フランス,イギリス亡命,晩年は貧困のうちにパリで死んだ。

ペレス
Pérez, José Joaquín

[生]1800
[没]1889
チリの政治家。大統領 (在任 1861~71) 。自由主義派の大統領として州の自治権を尊重し,議会制度の確立をはかるかたわら,経済面でもサンチアゴ-バルパライソ間の鉄道敷設,財政改革などを手がけた。しかし保守派の抵抗も強く,大統領の権限を縮小された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペレス」の意味・わかりやすい解説

ペレス(Carlos Andrés Pérez (Rodriguez))
ぺれす
Carlos Andrés Pérez Rodríguez
(1922―2010)

ベネズエラの政治家。タチラ州のアンデス山中の町の商家に生まれる。民主行動党(AD)で活動しながらカラカス中央大学に学ぶ。ペレス・ヒメネスの独裁のもとで投獄と亡命生活を余儀なくされたが、政治活動を続け、AD政権(1959~1964)で内相などを歴任。1974~1979年の大統領在任中には石油の富を背景に積極外交を展開し、国連で資源ナショナリズムをうたい、ラテンアメリカ経済機構(SELA)設立に協力し、アンデス、中米、カリブ地域の開発を支援して、ベネズエラの国際的地位を高めた。また石油国有化を実施し、工業化にも力を入れたが、政権末期には石油の値下りや放漫財政により、経済が悪化した。1989年大統領に再選され、深刻な経済建て直しのためネオリベラリズム(新自由主義)政策に転じたが、国民の不満が高まり、デモ、ストライキ、二度のクーデター未遂事件で危機に陥った。さらに公金不正使用疑惑から1993年5月に国会で職務停止処分を受け失脚、1996年に自宅軟禁2年4か月の有罪判決を受け服役した。

[乗 浩子]


ペレス(Shimon Peres)
ぺれす
Shimon Peres
(1923―2016)

イスラエルの政治家。ポーランド生まれ。1934年パレスチナへ移住。1968年の労働党の結成では重要な役割を果たす。1974~1977年国防相。1977年4月労働党党首。1984~1986年リクード連合との挙国一致内閣で首相、1986~1988年副首相兼外相。1988~1990年シャミール首班下の連立政権で副首相兼蔵相。1990年3月中東和平をめぐる対立で辞任。1992年労働党党首選挙でラビンに敗北。同年労働党が総選挙で勝利し外相。1993年ノルウェーでのパレスチナ解放機構(PLO)との秘密交渉に参加し、9月暫定自治原則合意(オスロ合意)に成功。1994年ラビンおよびアラファトとともにノーベル平和賞を受賞。1995年11月ラビン暗殺後に首相に就任し、1996年5月の首相公選でリクード連合のネタニヤフに敗北するまで和平交渉に努力した。2005年11月労働党を離れ、シャロン首相率いるカディマKadimaに入党。2007年7月大統領に就任(~2014年)。

[伊能武次]

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