イリ事件を解決するため、ロシアと中国清(しん)朝間で結ばれた条約。1864年に清帝国領新疆(しんきょう)にイスラム教徒の反乱が起こり、これに乗じてコーカンド・ハン国の将軍ヤクブ・ベクがカシュガルに侵入して政権をたて、清朝勢力を駆逐するとともに、イギリスおよびトルコと提携しようとした。ロシアは、この戦乱によってイリ地方在住のロシア人の財産が危険になったという口実のもとに、イリに出兵して占領し、清朝の撤退要求に応じなかった。これがイリ事件である。1878年に清朝は新疆全土を奪回し、ロシアに対してイリ返還を要求するため、崇厚(すうこう)を大使として派遣して談判させ、クリミア半島のリワディアで条約を結んだ。これが79年のリワディア条約(第一次イリ条約)である。その内容は、ロシアはイリを返還するが、その代償として清朝はイリ西部地方を割譲するというものであった。清朝政府は崇厚の屈辱的外交を怒り、彼に死刑を宣告し、条約の批准を拒否した。そのため両国の関係が悪化した。しかし、イギリス、フランスの仲介により、清朝は81年、曽紀沢(そうきたく)を大使として派遣して改訂イリ条約(サンクト・ペテルブルグ条約)を締結した。これによって清朝はイリ地区の大部分を取り戻したが、ザイサン湖周辺地方をロシアに割譲し、償金900万ルーブルを支払うことになった。これも清朝に不利な条約であったが、これによって今日の中国とカザフスタン共和国とのイリ国境線が確立した。
[佐口 透]
1871年ロシアは,当時新疆(しんきょう)全域に進行中であったムスリムの反乱を利用して,以前清国領であったイリ地方を占領し,清が撤兵を要求しても,ロシアは新疆の秩序の回復するまでは交渉に応じないとの態度をとった。75年以来,左宗棠(さそうとう)の新疆平定作戦が進行し,78年に至って全土は清の支配下に帰して治安が回復し,ただイリ地方を残すのみとなった。そこで清とロシアの交渉が開かれ,崇厚(すうこう)が代表としておもむき,両国間の通商,分界,賠償問題について議し,クリミアでリヴァージャ協定を結んで帰ったが,恭親王奕訢(えききん),張之洞(ちょうしどう)らの反対が激しく光緒帝の批准が得られなかった。81年に至って曾紀沢(そうきたく)が新たに交渉を再開し,ペテルブルクにおいてイリ条約を結び,国境線を定めてイリ地方は清に返還された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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