恭親王奕訢
きょうしんおうえききん
(1833―1898)
中国、清(しん)の皇族。第8代皇帝道光(どうこう)帝の第6子。第9代の咸豊(かんぽう)帝の弟。アロー戦争で1860年咸豊帝が熱河(ねっか)に避難すると、北京(ペキン)に侵入したイギリス・フランス連合軍と外交折衝にあたった。咸豊帝が熱河で死ぬと、西太后(せいたいこう)らと結んでクーデターを行い、実権を握り、議政王に任ぜられた。以後、幼い同治(どうち)帝を補佐し、太平天国の乱やアロー戦争などの内乱と外圧で動揺する清朝支配の維持に努め、曽国藩(そうこくはん)らを用いて、伝統的体制回復に効果をあげ、同治中興といわれた。やがて西太后の勢力に押されて、清仏(しんふつ)戦争(1884)ののち政界の第一線から退いた。しかし、その後も皇族中の重鎮であることは変わらず、日清戦争(1894)のときには軍機処(ぐんきしょ)大臣に任ぜられたりした。
[倉橋正直]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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恭親王奕訢
きょうしんおうえききん
Gong-qin-wang Yi-xin; Kung-ch`in-wang I-hsin
[生]道光12(1833).11.21.
[没]光緒24(1898).4.10.
中国,清末の皇族。道光帝の第6子。兄の咸豊帝を補佐して太平天国,アロー戦争に対処し,咸豊 10 (1860) 年には北京条約を結んだ。以後,総理衙門の首班として外交の責任者となり,また議政王大臣,軍機大臣に任じられ,内政をも支配し,洋務運動を推進した。西太后の実権掌握に尽力したが,のちにうとんじられ,またその軟弱外交を糾弾されて,光緒 10 (84) 年引退。日清戦争期に再起用されたが,実権はなかった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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恭親王奕訢(きょうしんおうえききん)
Gongqinwang Yixin
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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恭親王奕訢
きょうしんおうえききん
1832〜98
清朝の皇族
宣宗道光帝の子。兄の文宗咸豊帝 (かんぽうてい) を助け,1860年アロー戦争における英仏連合軍の攻撃に際しては軍機大臣として交渉にあたり,北京条約を締結した。この結果,外国公使が北京に駐在するようになったため,1861年総理衙門を設立し,その首席となった。甥の穆宗 (ぼくそう) 同治帝が即位すると,太平天国を鎮圧,西太后と結んで内政・外交を補佐し,同治中興を実現した。日清戦争時には軍機大臣であったが,戊戌の変法の直前に死去。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の恭親王奕訢の言及
【総理衙門】より
…親王が総理し,大臣(総署大臣)が軍機大臣,大学士,尚書,侍郎,京堂から選ばれて兼任した。当初は恭親王奕訢(えききん),大学士桂良,軍機大臣戸部左侍郎文祥の3人で構成されたが,後には通常7~8人で構成された。これら王大臣の下に章京(書記官)が内閣,部院,[軍機処]の司院から満漢8名ずつ選ばれ(のちに総計20名),事務処理に当たった。…
【戊戌変法】より
…98年4月,彼は〈国家を保ち,種(民族)を保ち,教(孔子教)を保つ〉ことを宗旨とする保国会を官僚たちによびかけて組織し,変法運動は最高潮に達した。 しかしたまたま保守派の中心人物恭親王奕訢(えききん)が病死したため,変法運動は新しい局面をむかえた。光緒帝は,6月11日,〈明らかに国是を定める〉という詔勅を下し,これ以後,9月21日の政変に至るまでの103日間,康有為ら変法派と皇帝側近とが協力し,光緒帝を通じて,種々の改革案が〈上諭〉の形式でやつぎばやに発せられた。…
※「恭親王奕訢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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