日本大百科全書(ニッポニカ) 「オリバレス」の意味・わかりやすい解説
オリバレス
おりばれす
El conde-duque de Olivares, Gaspar de Guzmán
(1587―1645)
スペイン王フェリペ4世の寵臣(ちょうしん)。ローマ教皇庁付大使、シチリア副王、ナポリ副王を歴任したオリバレス伯エンリケ・デ・グスマンの三男。1月6日にローマで生まれる。1601年イタリアを離れてスペインへ向かい、サラマンカ大学で学ぶ。1604年、夭折(ようせつ)した長兄に続く次兄の死により、オリバレスの人生は聖職への道から王室へと大きく変わる。1607年父の後を継ぐとともに、国王フェリペ3世の妃マルガリータの女官と結婚して王室接近への布石を打つ。国王の寵臣レルマ公はオリバレスの権力への野望をかぎつけ横やりを入れるが、オリバレスは巧みにはねのけ、1615年、皇太子フェリペ(後のフェリペ4世、当時10歳)とフランス王故アンリ4世の娘エリザベートの結婚を機に設けられた皇太子家6名の侍従の1人となる。こののちレルマ公、ウセダ公(父子)をけ落とし、1621年フェリペ3世が崩御するや、新国王フェリペ4世より国政の全権をゆだねられた。傲慢(ごうまん)で権力欲に燃えるオリバレスは強権をもって国事をつかさどる。その結果、オランダ独立軍との間の12か年の休戦協定は更新されず、1621年戦闘再開となり(1648年終結)、イギリス王ジェームズ1世の皇太子チャールズ(後のチャールズ1世)とフェリペ4世の妹マリアの縁談は破談に終わり(1623)、対イギリス関係は悪化した。イタリアではマントバ公領の相続をめぐってフランスのリシュリューと争い(1631)、1640年にはカタルーニャ、ポルトガルで大規模な反乱が発生する。かくして、四面楚歌(そか)のなか国王の信頼も失い、1643年失脚、1645年7月22日ひっそり死んだ。
[青木康征]