リシュリュー(読み)りしゅりゅー(英語表記)Armand Jean du Plessis de Richelieu

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リシュリュー」の意味・わかりやすい解説

リシュリュー(Armand Jean du Plessis de Richelieu)
りしゅりゅー
Armand Jean du Plessis de Richelieu
(1585―1642)

フランスの政治家、枢機卿(すうききょう)。西部フランスのポアトゥー地方に所領をもつ貴族の子として、パリに生まれる。1607年にポアトゥー地方のリュソン司教となる。1614年パリで開かれた全国三部会にポァトゥー聖職者代表として出席し、国王ルイ13世の母后で摂政(せっしょう)のマリ・ド・メディシスの目にとまって1616年国務卿に任命された。1617年母后の寵臣(ちょうしん)コンチニ(通称アンクル元帥)がルイ13世の手先に暗殺されると、母后がブロアに追放され、リシュリューは母后の後を追った。その後、国王と母后の和解の仲立ちとしてルイ13世に認められ、1622年枢機卿、1624年国務会議のメンバーとなり、同年宰相の地位についた。

 リシュリューの政治理念は王国の隆盛と国王の尊厳の確立にあり、彼は「国家理法」Raison d'Etatの観念を明確に意識していた。彼が、国家のなかに独立したプロテスタント国家を建設しつつあったユグノー(新教徒)派の勢力打破に努めたのもこの観念に添ったものである。ルイ13世が1620年ベアルン地方に兵を進めて以来、ユグノー派はふたたび武力抵抗に突入し、リシュリューが登場したときには、国家の安全を脅かすほどの反乱を展開していた。彼は信仰の自由には寛容を示したが、ユグノー派が独自の政治勢力となることを認めず、彼らの最大の牙城(がじょう)ラ・ロシェル市を1627年攻略し、約1年に及ぶ海上封鎖ののち陥落させた。1629年「アレスの王令」によってユグノー派は信仰の自由は認められたが、いっさいの政治的・軍事的特権を剥奪(はくだつ)された。これと並行して反抗的な貴族は容赦なく抑圧された。リシュリューの政治目標がすべての臣民を国王に服従させることにあったからである。ルイ13世の親政(1617)後、母后マリ・ド・メディシスと王弟ガストン・ドルレアンは、反リシュリュー勢力として絶えず陰謀中核を形成していた。リシュリュー失脚を画策して失敗した1630年の陰謀は「欺かれた者たちの日」(10月11日)とよばれ、その事件で中心的役割を果たした母后マリ・ド・メディシスはベルギーに亡命し、マリヤック兄弟は処罰された。1632年にロレーヌ公やモンモランシー公、1641年にソアッソン伯、1642年にはサンク・マルスやブイヨン公らの反乱が続いたが、いずれの陰謀にもガストン・ドルレアンが関与しており、これらは王権の手によって粉砕された。

 リシュリューは、対外的にはフランス王国の国際的威信を高めるため、ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権確立の阻止に努めた。マントバ継承戦争を巧みに利用してピネロロとカザーレにフランス軍の駐屯地を確保し、スペインとオーストリアの動きを妨害するための戦略拠点の獲得を目ざした。1618年に始まった三十年戦争では、ドイツの新教派を支援していたが、1634年新教派のスウェーデン軍が皇帝軍に敗れて戦線から離脱すると、ハプスブルク家との対抗上、1635年この戦争に直接参戦することを余儀なくされた。リシュリューは、1642年国王のスペイン地中海岸の親征に同行して病を得、同年12月4日パリで死去した。

 リシュリューが亡くなるころには、フランスの版図はほぼ自然国境に近づいていた。リシュリューの時代は、また租税増徴に伴って農民一揆(いっき)が激発した時代で、ケルシー地方のクロカンの乱(1624)、ディジョンルーアンの反王税民衆運動(1630)、南東部の農民一揆(1635)、ノルマンディー地方の「バ・ニュ・ピエ(裸足同盟)の乱」(1639)と相次いで起こった。政治面では、高等法院の建白権が制限され、アンタンダン(地方長官)制が設置されて、国王直轄行政の強化が図られた。経済面では、海外貿易への投資が奨励され、スペイン、オランダ、イギリスとの国際商業戦争に突入していった。

 リシュリューは、フランスにおける新聞の始まりである『ラ・ガゼット』La Gazette誌を保護し、1635年にはアカデミー・フランセーズを創設してフランス語の改良や純化に尽力した。著書に『教理問答』L'Instruction du chrétien ou Catéchisme de Leçon(1619)などがある。

[志垣嘉夫]



リシュリュー(Armand Emmanuel du Plessis, duc de Richelieu)
りしゅりゅー
Armand Emmanuel du Plessis, duc de Richelieu
(1766―1822)

フランスの政治家。大革命の初期に亡命し、ロシア軍隊に入る。その勇敢さと高潔な人格をロシア皇帝アレクサンドル1世に認められて1803年オデッサ(現、オデーサ)の知事に任ぜられ、この地の経済発展に尽くした。王政復古とともに帰国し、1815年首相となる。翌1816年の選挙で議会の多数を占めた立憲王党派に依拠して中道政策を進め、1818年までにナポレオン戦争の賠償金の支払いと外国軍隊の撤退を実現した。1820年王位継承者ベリー公暗殺後の反動化の時期にふたたび首相の任を帯びたが、ビレールら過激王党(ユルトラ)派の攻勢を支えきれず1821年末辞職した。

[服部春彦]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リシュリュー」の意味・わかりやすい解説

リシュリュー
Richelieu, Armand Jean du Plessis, Cardinal et Duc de

[生]1585.9.9. パリ
[没]1642.12.4. パリ
フランスの政治家,枢機卿。国王ルイ 13世の宰相を 18年間つとめ,その間内外の諸問題を通じて王国にかつてない権勢をもたらしたことで知られる。貴族の家に生れたが,リュソンの司教となり,1614年全国三部会の聖職者代表に選ばれ政界に入る。ルイ 13世の母后マリ・ド・メディシスに見出され,15年王妃アンヌのオモニエ (侍従司祭) ,16年国務卿に任命された。マリの寵臣 C.コンチーニが暗殺されるとマリとともに宮廷を去ったが,20年ルイ 13世とマリの和解が成立して,宮廷に復帰。 22年枢機卿,24年国王の国務会議に入り事実上の宰相となり,28年には新教徒の拠点ラロシェルを制圧した。「王国の強大」化に執念を燃やし,集権力強化の国政改革を推進し,またヨーロッパにおける主導権の確立を求めてハプスブルク勢力と対決し,35年三十年戦争に参加した。戦争は意図に反して長期化し,戦費のための重税政策は,宮廷内におけるリシュリュー失脚の陰謀をたびたび誘発し,またニュ=ピエの反乱 (1639) などをはじめ,民衆反乱が頻発した。経済面では,海外貿易の投資を奨励し,当時海上貿易はオランダ人が独占していたが,それをフランスの手に握るために多大の努力を払った。フランスを中世的国家から近代的国家へと脱皮させる彼の集権国家構想は未完に終ったが,その事業は J.マザランによって引継がれ,完成した。また,学芸の保護と統制のため,アカデミー・フランセーズを設立 (35) した。遺稿に『政治的遺書』 Testament politiqueがある。

リシュリュー(公家)
リシュリュー[こうけ]
Richelieu, Ducs de

フランスの枢機卿リシュリュー (1585~1642) の子孫の家系。その甥の子にあたるルイ・フランソア・アルマン (96~1788) はポーランド継承戦争,オーストリア継承戦争,そして七年戦争に参加し武名をあげ,元帥となった。その孫アルマン・エマヌエル (66~1822) は 1789年 10月亡命しロシア軍に参加,オデッサ総督に任命された。王政復古後,首相 (在任 15~18) となる。ロシア皇帝と親交があり,ナポレオン戦争後の処理にあたり,四国同盟へのフランス加盟を実現した (16) 。 1820~21年再び立憲王党右派を代表して首相となった。

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