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カウニッツ カウニッツKaunitz, Wenzel Anton, Reichsgraf von

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

カウニッツ
Kaunitz, Wenzel Anton, Reichsgraf von

[生]1711.11.2. ウィーン
[没]1794.6.27. ウィーン
オーストリアの政治家。初め聖職を志したが,1735年以来,皇帝の政府に勤務,おもに外交活動に従事。オーストリア継承戦争に際しては,アーヘンの和約会議でオーストリア全権大使をつとめた。その後,50年からパリ駐在大使として,対プロシア同盟の締結に尽力,53年からはマリア・テレジア国務長官の要職に任じられた。 56年1月プロシアがイギリスと結んだとき,彼はこれに対抗してフランスとの防御同盟を結ぶことに成功し,さらにロシアをもこれに加わらせた。七年戦争によるプロシア打倒には失敗したが,第1次ポーランド分割によるガリチアの獲得などは彼の外交手腕のたまものである。内政面では啓蒙絶対主義を支持する開明政治家であり,学芸の保護にも関心を注いだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

カウニッツ
かうにっつ
Wenzel Anton, Frst von Kaunitz-Rietberg
(1711―1794)

オーストリアの政治家。1740年からのオーストリア継承戦争中に外交官、1748年アーヘン平和会議では全権となる。その経験から、プロイセンを抑えるためにイギリス・オランダ依存をやめ、ロシアに加えて、15世紀以来伝統的に敵対関係にあったフランスとの同盟を考えた(外交革命)。1749年マリア・テレジアの承認を得て1750年自らパリ大使となった。1753年にウィーンに戻り宰相となったが、この外交革命は1756年ベルサイユ条約として結実、七年戦争に対処した。シュレージエンの奪回はならなかったが、その後も反プロイセン外交を貫き、内政でもマリア・テレジア、ヨーゼフ2世の啓蒙(けいもう)的諸改革を支え産業育成など国力の充実に努め、音楽、芸術を保護してウィーンの文化を高めた。しかしフランス革命の勃発(ぼっぱつ)に直面して反プロイセン政策が不可能になると、レオポルト2世の死後、1792年宰相を辞し、引退した。[進藤牧郎]

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