改訂新版 世界大百科事典 「ガボン」の意味・わかりやすい解説
ガボン
Gabon
基本情報
正式名称=ガボン共和国République Gabonaise
面積=26万7668km2
人口(2011)=150万人
首都=リーブルビルLibreville(日本との時差=-8時間)
主要言語=フランス語,バントゥー諸語
通貨=CFA(中部アフリカ金融共同体)フランFranc de la Coopération Financière en Afrique Centrale
アフリカの西海岸,赤道直下に位置する小国。15世紀末期にこの地に渡来したポルトガル人が,オゴウェ河口にある小高い丘の形状を見て〈ガバオン〉(フード付き外套)と呼んだのが国名の由来といわれる。首都リーブルビル(〈自由の町〉の意)は,19世紀半ばにフランスが解放奴隷の町として建設したので,その名がある。植民地時代はフランス領赤道アフリカの一部を形成していたが,1960年8月17日に独立して共和国となった。
執筆者:小田 英郎
自然
国土の西部,大西洋側は低地であるが,内陸部は標高500~700m程度の高原で,コンゴ盆地とは低い丘陵でへだてられている。このコンゴ盆地をへだてている下ギニア丘陵が分水界となって,ガボンの大部分はオゴウェ川流域にあたっている。海岸線は変化に富み,リアス海岸のように入江が多い。とくに南部では卓越する沿岸流のため,砂州,潟湖が発達している。
気候は高温多雨の熱帯雨林気候で,年平均気温は25~27℃,年降水量も平均1500mm以上に達し,年2回の雨季をもつ。この傾向は海岸線および海岸低地地方でとくに著しく,大西洋に面した首都リーブルビルでは,年降水量も3000mmに達し,湿度も年間を通じて85~100%を示している。このため内陸の高原地帯の一部にあるサバンナを除いて,国土の大半は熱帯雨林でおおわれている。
執筆者:端 信行
住民,社会
先住民のピグミー系のバビンガ族が森林で狩猟採集生活を送っているが,その人口は数千人に減少している。住民の大多数はバントゥー系で,ファン族,エシラ族,アドゥマ族,オカンデ族,バコタ族などが有力である。最も人口の多いファン族は16世紀ごろカメルーン地方から南下してきたが,リーブルビル近辺に居住していたムポングウェ族などを文化的に吸収している。ヤムイモ,プランテンバナナ,キャッサバなどを主作物とする農耕民であるが,狩猟も行う。また活発な交易活動に従事してオゴウェ川中流地域まで進出した。ファン族がかつて用いていた鉄貨や,精巧な彫刻は有名である。マンガン鉱などの鉱物資源や森林資源に恵まれ,ガボンの1人当り国民所得はアフリカでも有数の高い数値を示している。言語はフランス語が公用語であるが,北部ではファン語が普及している。宗教はカトリックとプロテスタントが広まりつつあるが,少数のイスラム教徒もいる。その他は伝統的な部族の信仰を守っている。教育・医療面でカトリックの力が大きい。また,アルベルト・シュワイツァーの開いたランバレネの伝道病院は著名である。人口の20%は首都のリーブルビル,石油産業の基地のポール・ジャンティル,南東部のオゴウェ川上流の鉱山町フランスビルとモアンダの各都市に集中している。一方,農村部ではコーヒー,カカオ産地のウォレウ・ヌテムとアブラヤシ産地のランバレネに集中している。
執筆者:赤阪 賢
歴史
ポルトガル人渡来以前の歴史は記録がなく,定かでない。ポルトガルは15世紀末期に進出して以降オゴウェ河口付近に通商基地を設置し,奴隷貿易やその他の交易を行い,またキリスト教の布教を進めた。次いでイギリス,オランダ,フランスが沿岸地域に進出して奴隷貿易を行った。19世紀に入って奴隷貿易が禁止されたのち,フランスの勢力拡大が目だつようになり,フランスは現地の首長と次々に条約を結んで沿岸地域をその手におさめた。さらに19世紀半ばごろから徐々に内陸部へ進出していったが,1870~80年代にド・ブラザPierre Savorgnan de Brazza(1852-1905)がオゴウェ川上流を探検し,トヨ(バテケ)の大首長マココをはじめ多くの首長たちと保護条約を結んだことにより,今日のガボンのほぼ全域がフランスの支配下に組み込まれることになった。84-85年に欧米14ヵ国が参加して開かれたベルリン会議は,ガボンのみならずコンゴ川西岸に至るまでの地域に対するフランスの支配権を認め,90年にガボンは正式にフランス領コンゴの一部となった。1903年に分離されて別個の植民地となり,10年にはチャド,ウバンギ・シャリ(現在の中央アフリカ共和国),コンゴとともにフランス領赤道アフリカを形成することとなった。フランスは同化主義を植民地政策の基本原理にかかげていたが,それが部分的にであれ実践されたといえるのは西アフリカ(とくにセネガルの一部)だけであって,赤道アフリカでは同化民を生み出す政策はほとんど影をひそめ,むしろアフリカ人を〈原住民〉という名称で呼ばれる従属民の地位に固定化する政策がとられた。〈原住民〉は同化民とちがって言論・結社の自由は認められず,フランス法による裁判も受けられず,強制労働に服さなければならなかった。こうした状況のなかでフランスに対する抵抗運動は赤道アフリカでは組織されにくかったが,とりわけガボンではそうであった。
第2次世界大戦中および戦後の西欧植民地体制の弱体化が急激に進むなかで,58年11月にガボンはフランス共同体内の自治共和国となり,60年8月には完全独立を達成して,ガボン民主ブロック(BDG)の指導者ムバLeon M'Baが初代大統領に就任した。ムバは64年2月の軍部クーデタで一時的に失脚したが,フランスが両国間の防衛協定を法的根拠として軍事介入を行い,ムバは2日後には政権の座に復帰した。その後も政情は容易に安定しなかったが,ムバ政権はフランスの政治的・軍事的てこ入れによって反対勢力を圧し,67年には事実上BDGの一党体制を確立した。しかもこの間ガボンでは石油,ウランをはじめとする豊富な鉱物資源が本格的に開発され始め,経済成長が軌道に乗り,ムバ政権の基盤はしだいに強固になっていった。ムバは67年11月に死去し,ボンゴAlbert B.Bongoが副大統領から昇格して新大統領となった。
政治
独立以来の共和制で,行政上の最高責任者は大統領である。議会は一院制の国民議会で議員の任期は5年となっている。政党は67年にBDGの事実上の一党制となったが,ボンゴ大統領は68年3月にいたって事実上の一党制を法制上の一党制に変えることを決定し,BDGを解散してその後継政党としてガボン民主党(PDG)を創設した。PDGのモットーは〈対話,寛容,平和〉であり,これによって部族対立を克服し,国民的統合を推進し,国家的統一を確保することが,その目標として設定されている。ポスト冷戦期の世界的な民主化の流れのなかで,90年9~11月複数政党制選挙を実施,PDGが120議席中66議席獲得で辛勝した。93年の大統領選挙では,ボンゴが得票率わずか51%で5選された。対外的には旧宗主国フランスとの関係が緊密であり,また1977-78年にはボンゴ大統領がアフリカ統一機構の議長をつとめた。
経済
国土の90%が森林地帯であるため林業が盛んで,1960年代半ばごろまでは木材が輸出品目の第1位を占めていた。その後マンガン,ウランなど鉱物資源の開発が進み,また石油の生産も急激に増加したため,産油国としてのイメージが強くなった。これらの鉱物資源や石油は主としてフランスの企業によって開発されているが,マンガンは高品位であり,石油は低硫黄で質が高い。こうした豊富な森林資源,鉱物資源に支えられて,ガボンの経済は全体として繁栄を保ち,1人当りGNPは3800ドル(1995)とアフリカでは群を抜いて高い。しかし86年には石油価格が大幅に低下したため,ガボンの経済は深刻な危機をこうむり,87年には債権者グループとの間に債務返済繰延べの合意が成立した。このほか,国民の間の貧富の差は大きく,都市住民と農村住民の経済的格差は広がる一方であるという,重大な問題点をかかえている。中部アフリカ関税経済同盟(UDEAC)の加盟国であり,ロメ協定によってヨーロッパ連合(EU)に連合するACP(アフリカ・カリブ・太平洋)諸国の一員でもある。かつて石油輸出国機構(OPEC)に加盟していたが,94年12月脱退を表明(1996年6月承認)した。
執筆者:小田 英郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報