シュワイツァー(Albert Schweitzer)
しゅわいつぁー
Albert Schweitzer
(1875―1965)
ドイツの神学者、思想家、音楽家、医師。シュバイツァー、シュワイツェルともいう。1月14日オーバーエルザス(当時ドイツ領、現在フランス領)のカイザースベルクの牧師の家に生まれる。数週間後、同地方のギュンスバッハへ移り、この地が終生の故郷となる。ストラスブール大学に学び、1899年哲学博士号取得後、同地の聖ニコライ教会副牧師、1900年神学博士、1902年ストラスブール大学講師となる。
[森田雄三郎]
1905年以後、学生時代の献身の決意を実現するため、あわせて医学を勉強し、1913年医学博士となった。同年パリ福音(ふくいん)伝道会派遣の医師として赤道アフリカのフランス領コンゴ(現、ガボン共和国)のランバレネに赴き、医療事業を開始する。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)のため捕虜(ほりょ)として抑留されて事業は挫折(ざせつ)し、ヨーロッパへ送還された。戦後、文筆活動、講演、20代で名声を博していたパイプ・オルガンの演奏によって資金を調達し、チューリヒやベルンの大学からの招きも断って、1926年再度ランバレネに赴いて病院を再開し、医療事業を拡張した。休暇のときも多くは資金調達のため、ヨーロッパで講演とオルガン演奏に費やした。第二次世界大戦中もずっとランバレネにとどまり、体力の限界と薬品物資の欠乏をおして医療に専念した。1952年のノーベル平和賞を、翌1953年に受ける。その感謝の講演はオスロ放送局から流されたが、そのなかで世界平和を呼びかけ、原子力による世界危機に対して人類が理性をもって対処すべきことを説いた。1965年9月4日ランバレネにて没し、病院墓地に葬られた。没後しばらくたって病院はガボン政府の所管に移されたが、シュワイツァー平和記念病院として今日も存続している。故郷ギュンスバッハには資料館がつくられている。
[森田雄三郎]
シュワイツァーの偉大さは、多方面にわたる思想を具体的な生活実践を通して実証した点にある。神学者としてのシュワイツァーは、教会的神学からはやや過激な自由主義と危険視された。シュワイツァーの理解した史実のイエスは、ユダヤ教の黙示文学の終末論の下に、近い将来宇宙の大転換がおこり、自分が救世主に変貌(へんぼう)せしめられるものと期待していた。そして近迫した終末に備えて愛の「中間時の倫理」を説いた。以後のキリスト教の歴史は、実現しなかったイエスの徹底的終末論の謎(なぞ)を思索し、精神化、倫理化していく過程である。この精神化の極限にみいだしたのが「生命への畏敬(いけい)」である。それは、神の愛にとらえられて生かされつつ生きる意志を自己と自己の周囲に発見し(世界、人生肯定)、思弁を捨てて他者のために生き(諦念(ていねん))、生きようとする意志の連帯を強化促進すること(倫理)を意味する。シュワイツァーはさらに思索を東洋思想との比較にまで拡大して、生命への畏敬を普遍化することを試みた。
主著に『イエス伝研究史』(1906)、『文化哲学』(1923)などがある。また、オルガン奏者としての名声のみならず、大著『バッハ』(1905)は今日のバッハ研究の古典であり、バッハのオルガン曲集の編集出版、ジルバーマンGottfried Silbermann(1683―1753)製作のオルガンの保存と修復も、シュワイツァーに負うところが大きい。現在「シュバイツァー日本友の会」が、世界各地の同組織と連係して、思想の研究と普及、資料と情報の蒐集(しゅうしゅう)にあたっている。
[森田雄三郎]
『国松孝二・竹山道雄・野村実他訳『シュヴァイツァー著作集』全20巻(1956~1972・白水社)』
シュワイツァー(Johann Baptist von Schweitzer)
しゅわいつぁー
Johann Baptist von Schweitzer
(1834―1875)
ドイツの社会民主主義者。フランクフルト・アム・マインに生まれる。弁護士となったが、マキャベッリの政治思想の影響を受けて労働運動に関心を抱き、同地の労働者教育協会の共同設立者となった。1863年ラッサールの率いる全ドイツ労働者協会に参加、1864年には協会機関紙『ゾチアール・デモクラート』(社会民主主義者)を創刊、一時はマルクスやエンゲルスの寄稿も受けた。1867年に協会の会長となったが、第一インターナショナルへの加盟に反対し、ラッサール主義を推し進めようとしたため、反対派がベーベルらとアイゼナハ派を結成する結果を招いた。1871年に政界を退き、以後文学に没頭、1875年7月28日スイスで没した。
[松 俊夫]
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シュワイツァー
Albert Schweitzer
生没年:1875-1965
フランスの哲学者,神学者,オルガン奏者,医師。当時はドイツ領であったエルザス(アルザス)のカイザースベルク(ケーゼルベール)に生まれ,シュトラスブルク(ストラスブール)大学に学んで《カントの宗教哲学》(1899)により哲学博士となる。そのあとJ.S.バッハの研究とパイプ・オルガンの演奏に傾倒するとともに神学研究を進め,1902年には同大学講師となり,《メシアと受難の秘密》(1901),《J.S.バッハ》(1905),学問的に高く評価された《ライマールスよりウレーデまで--イエス伝研究史》(1906),《パウロ研究史》(1911)などを,やつぎばやに刊行した。05年にパリ・バッハ協会を創立したが,この年の春に霊的衝撃を感じて黒人医療に一生を捧げる決意をし,医学の修業に入った。11年に結婚,12年に医学博士となり,13年には看護婦であった妻とともにフランス領赤道アフリカ(現,ガボン共和国)のランバレネに渡り,ここに熱帯病病院を建てて医療活動に入った。その後の神学著作には《使徒パウロの神秘主義》(1930)があるが,関心は文明論に移って,《文化哲学》2巻(1923),《インド思想家の世界観》(1935)などを刊行した。自伝に《水と原生林のはざまで》(1921),《わが生活と思想より》(1931)がある。なお,音楽関係の著作には,前述のバッハ伝のほか《独仏のオルガン製作と奏法》(1906)などがあり,師C.M.ビドールとの共編《バッハ・オルガン曲集》8巻(1912-67)も知られる。
シュワイツァーの神学研究は宗教史学派の枠内にありながらも,新約聖書の終末論と神秘主義を鋭くとらえた点で功績がある。同時に第1次世界大戦を契機として生まれた文明批判があり,それはヨーロッパ固有の否定精神を克服して,世界と人生の積極的肯定に至ろうとするものであった。〈生命への畏敬Ehrfurcht vor dem Leben〉という標語は,ランバレネに行くオゴウェ川遡行のあいだにひらめいたものという。52年ノーベル平和賞を受け,その後核実験禁止を強く訴えた。日本では内村鑑三が早くから彼を知ったほか多くの人が援助し,あるいは病院での治療活動にも参加した。
執筆者:泉 治典
シュワイツァー
Johann Baptist von Schweitzer
生没年:1833-75
ドイツの労働運動指導者。大学教育を経て,1857年フランクフルト・アム・マインで弁護士となる。同地の労働者教育協会で活動後,63年,全ドイツ労働者協会に参加,会長ラサールの没後は機関紙《社会=民主主義者》を創刊,編集に従事,一時,マルクスの協力も得た。67年,会長となり,北ドイツ連邦議会議員にも当選,ベーベルらのドイツ労働者協会連盟と競合,69年に創立された社会民主労働者党とも対抗して協会を率いたが,その独裁的傾向が離反を招き,71年引退した。
執筆者:西川 正雄
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「シュワイツァー」の意味・わかりやすい解説
シュワイツァー
アルザス生れ,ドイツ系のプロテスタント神学者,哲学者,音楽家,医者。ルター教会の牧師を父とし,シュトラスブルク大学で神学,哲学を修め,1902年同校神学部講師。《イエス伝研究史》(1906年)で,イエスの教えの終末論的性格を論じ,《パウロ研究史》を著した。21歳の時の〈人類への直接奉仕に入ろう〉という決意に従い,1905年からは医学を学んで医師の資格をとり,1913年ガボン(当時は仏領赤道アフリカ)のランバレネに病院を建設,生涯,医療と伝道に献身。初期の活動を中心とした著に《水と原生林の間で》がある。1952年ノーベル平和賞。音楽家としては,バッハ研究の標準的著作《J.S.バッハ》(1905年)があり,またオルガン演奏も行った。哲学方面では〈生命の畏敬(いけい)〉の倫理などについて論じた《文化哲学》(1923年)がある。
→関連項目人智学|人文主義|スミス|ビドール|ランバレネ
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世界大百科事典(旧版)内のシュワイツァーの言及
【イエス伝】より
…自由主義のイエス伝はやがて自由主義神学そのものの内から現れた研究により,二つの側面から根本的に批判された。その一つは,ワイスJohannes Weiss(1863‐1914)の《神の国についてのイエスの説教》(1892),およびワイスをより徹底させた[A.シュワイツァー]の〈徹底的終末論〉(《イエス伝研究史》1906)によって,イエスの〈神の国〉の説教の持つ終末論的超越性が同時代のユダヤ教黙示文学の歴史理解と終末待望の背景から明らかにされたことである。さらには,《マルコによる福音書》自体が全体として一定の神学的理念=〈メシアの秘密〉によって貫かれており,イエス伝の史的再構成のための基礎史料とはなりえないことが,ウレーデWilliam Wrede(1859‐1906)の画期的著作《福音書におけるメシアの秘密》(1901)によって明らかにされた。…
【オルガン】より
…ドイツでは全般に衰退がいちじるしく,オルガンで名人芸を披露したリスト,メンデルスゾーン以外は目だった活躍がみられない。 20世紀初頭,古楽復興の動きの中で,バロック・オルガンの再興をめざす〈ドイツ・オルガン運動〉がシュワイツァーらのよびかけで起こり,これがヨーロッパ中に波及し,この理念によるネオ・バロック・オルガンの製作が始まった。第2次世界大戦後も,このタイプのオルガンが楽器製作の主流をなすが,1970年代から,この運動のひき起こした弊害も指摘され始め,現代の科学技術を取り入れた折衷的なネオ・バロック・オルガンの根本的見直しを主張する動きもみられる。…
【キリスト教音楽】より
…しかし,それと並んで見落とすことができないのは,過去の精神的遺産への目覚めである。パレストリーナ様式への復帰を標榜するチェチリア運動,フランスのソレーム修道院を中心とするグレゴリオ聖歌の史料研究と新しい実践(ソレーム唱法),A.シュワイツァー,シュトラウベMontgomery Rufus Karl Siegfried Straube(1873‐1950),グルリットWilibald Gurlitt(1889‐1963)の3人を柱としたバッハ以前のオルガン音楽とオルガンの再評価(オルガン運動)などが,その例である。19世紀には,ベルリオーズ,メンデルスゾーン,リスト,ベルディ,ブルックナー,ブラームスらの巨匠がおり,20世紀では神秘主義的なカトリシズムの立場に立つメシアンの斬新なオルガン曲や,現代的なネオ・バロック様式によるディストラー,ペッピングなどのプロテスタント教会音楽,オラトリオの歴史に新たなページを書き加えたオネゲル,フランクらの作品がある。…
【聖書学】より
…ホルツマンHeinrich Julius Holtzmann(1832‐1910)は〈二史料説〉(マタイとルカはマルコとイエス語録Qを利用した)を完成した。ワイスJohannes Weiss(1863‐1914),[A.シュワイツァー]は,イエスへのユダヤ教黙示文学の影響を示し,ブセット(ブーセ)Wilhelm Bousset(1865‐1920)は新約とヘレニズム諸宗教の関係を強調した。第2次大戦後,様式史的研究は,福音書が断片的口伝を集めて作られたものであることを明らかにし,1950年代以降,編集史的研究は,福音書記者の加筆と神学思想を取り出した。…
【ランバレネ】より
…オゴウェ川の中流,河口のポール・ジャンティルから約200kmの地点にある。1913年にA.シュワイツァーがここの原住民部落から2kmほど離れた地点に病院を建設し,キリスト教の人道主義に基づく治療活動を始めてから,世界的に有名となった。65年のシュワイツァー没後も病院は存続している。…
【アイゼナハ綱領】より
…1869年8月,ドイツ労働者協会連盟の[ベーベル],[W.リープクネヒト]たちと,[シュワイツァー]の全ドイツ労働者協会を脱退したブラッケWilhelm Bracke(1842‐80)らとがドイツのアイゼナハで開いた全ドイツ社会民主主義労働者大会において採択された綱領。それに伴い社会民主労働者党が創立された。…
※「シュワイツァー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」