改訂新版 世界大百科事典 「キプロス問題」の意味・わかりやすい解説
キプロス問題 (キプロスもんだい)
キプロス島をめぐる国際問題。同島内のギリシア系住民(約80%)とトルコ系住民(約19%)との対立を軸に,両系住民の背後にそれぞれギリシアとトルコが介入し,また東地中海域の安全保障をめぐってアメリカ,イギリス,ロシアの思惑がからむなどの複雑な問題をかかえている。キプロス島は1571年以来オスマン帝国の支配下におかれていたが,1878年以後イギリスの植民地となり,1923年のローザンヌ条約によって25年正式にイギリスに併合された。これに対して55年にイギリスが,スエズの軍事基地をこの地に移すと,ギリシア系住民によるエノシス(ギリシア本土への併合)を要求する反英闘争とトルコ系少数民に対するテロルとが激化した。これに対してギリシアとトルコがただちに双方の住民を支持して介入したため,59年にイギリスはギリシアとトルコを〈東地中海域の防衛とキプロス問題〉会議に招集し,その結果,60年にイギリス連邦内の共和国としてキプロスの独立を承認し,ギリシア正教独立支派の大主教マカリオス3世が初代大統領に選出された。
60年に採択された憲法ではトルコ系副大統領に国防と外交に関する拒否権を認めるなど両民族の融和措置が講ぜられたが,ギリシア系住民は重要な政治的地位を独占し,商業・経済分野において優位を確保した。63年末にマカリオスが憲法改正も示唆してトルコ系住民の権利をさらに制限する姿勢に転ずると,トルコ系住民はキプロス政府からの分離独立を要求し,両住民の間に武力衝突が発生した。64年3月国連安保理事会はキプロスに平和維持軍の派遣を決定した。トルコのみならずギリシアも非同盟中立路線をとるマカリオス政権に不満をもっており,ギリシアに軍事政権が誕生し,これを背景として74年7月,エノシスを進める地下運動組織エオカEOKAによる軍事クーデタが勃発しマカリオスを追放すると,トルコはただちに軍事介入し,島の北部を占領した。その結果クーデタは失敗し,マカリオスが大統領に復帰したが,75年2月トルコ系副大統領デンクタシュDenktaşは〈キプロス・トルコ連邦国〉を宣言(83年には〈北キプロス・トルコ共和国〉として独立を宣言)した。マカリオスは問題を国連に提訴し,国連維持軍の駐屯する状況のなかで国連の調停努力がつづけられているが,この問題は,共にNATOの一員であるギリシアとトルコの,19世紀初頭以来の長い対立抗争の歴史に根ざしており,容易に解決の糸口を見いだし得ないでいる。
その後,キプロスをめぐる両国の対立は20年ほどの間小康を保っていたが,その底流ではエーゲ海の海底油田やトルコおよびキプロスのEU加盟問題などトルコとギリシアの対立がキプロス問題に影を落としている。95年6月に,ギリシア国会が国連海洋法条約を承認すると,エーゲ海への出口を塞がれるトルコが反発し,両国の間の緊張が高まった。96年1月にはエーゲ海の小島の領有をめぐって両国の対立が再び表面化した。97年2月,キプロス北部のトルコ系住民地区とギリシア系のキプロス政府支配地区との間の緩衝地帯で銃撃戦がおこなわれるなど,キプロス問題はなお予断を許さない状況にある。
→キプロス
執筆者:永田 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報