東方正教会のなかでギリシアを管轄地域とする独立教会。ギリシアには使徒の時代にキリスト教が伝わった。ちなみにパウロの第2回宣教旅行は小アジアからギリシア北部のフィリッピ,テッサロニケを経て,アテナイとコリントスに及んだ。しかし使徒時代以降のキリスト教布教の状況はほとんど知られていない。教会管轄に関して,ギリシアはローマ教皇の管轄下にあったが,8世紀中葉,イコノクラスムの時代にコンスタンティノープル総主教の管轄に移された。6世紀よりギリシアには大量のスラブ人が侵入したが,キリスト教を受容し同化した。9世紀後半,テッサロニケ出身のギリシア人キュリロスとメトディオス兄弟はビザンティン帝国の使命を帯びて,モラビアのスラブ人にスラブ語典礼を伝えた。13世紀初頭,第4回十字軍の侵入によってコンスタンティノープルにラテン帝国が樹立されると,ギリシアの教会も大部分ラテン司教の管轄下に置かれたが,典礼や信仰生活に大きな変化はなかった。
1453年,ビザンティン帝国が滅亡し,オスマン帝国支配の時代に入ると,コンスタンティノープル総主教を首長とするミッレト制の成立により,ギリシアのキリスト教徒も従前どおりその管轄下に置かれた。ギリシアの独立運動が高まると教会もそれに荷担し,1821年にパトラスのラウラ修道院長ゲルマノスは自由への闘争を呼びかけた。22年にギリシアの教会は,オスマン帝国の利害を代弁していたコンスタンティノープル総主教座からの独立を宣言し,33年に国王もそれを確認した。コンスタンティノープル総主教はギリシア教会の独立を認めなかったが,50年に妥協がなった。ただしアトス山などギリシアの一部はコンスタンティノープル総主教の管轄下に残された。アテネ大主教を首長とするギリシア正教会は,社会主義国を除くと,東方正教会のなかで最大の教会をなし,ギリシア国民の95%以上が正教会に帰属している。
→東方正教会
執筆者:森安 達也
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ロシア正教会とともに、東方正教会の中核をなす教会。日本では、正教そのものをギリシア正教ということもある。1832年にギリシアがトルコから独立したのち、コンスタンティノープル総主教管下にあったギリシアの正教会は、1850年独立教会となった。こうして、ギリシアは正教を国教とする国となった。現在ギリシアには78の府主教区があり(ギリシアでは大主教が府主教の上)、初代教会機構の形態をそのまま受け継いでいる。ギリシア正教会には国民の約98%、約1028万人の信徒がいる(1996)。ビザンティン時代に建てられた教会や修道院が数多くあり、ギリシア人の生活の中心となっている。小学校の教科書には、復活祭(イースター)や降誕祭(クリスマス)の祝いが出ていて正教意識を植え付け、また若者に対する布教、伝道も盛んである。ギリシア国立のアテネ、テッサロニキ両大学には聖職者養成機関の神学部があり、ギリシア正教神学を教えている。なお、アトス山はギリシアの国の中で、「修道共和国」として特別区となっており、アトス山にある各修道院の代表による聖務院が最高機関である。
[田口貞夫]
ビザンツ帝国でコンスタンティノープル,アレクサンドリア,アンティオキア,イェルサレム諸教会のもとに発展したキリスト教会。「神聖にして正統普遍なる使徒の東方教会」と称したことから正教会,東方正教会ともいう。また1833年にナフプリオン教会会議で自治独立を宣言したギリシアの正教会をさすこともある。ローマ教会がラテン語を典礼用語とし,ゲルマン人の侵入によって文化の低下した西方で発展したのに対し,ギリシア語を典礼用語としヘレニズムの伝統を持つ東方で発展し,伝道によってグルジアやスラヴ世界にキリスト教を広めた。1054年に西方教会と分離したが,正教会はブルガリア正教会,セルビア正教会,ロシア正教会などのように多数の民族教会を認め今日に至っている。
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