ギーズ家(読み)ギーズけ

改訂新版 世界大百科事典 「ギーズ家」の意味・わかりやすい解説

ギーズ家 (ギーズけ)

ヨーロッパの名門貴族ロレーヌ公家から分かれた有力家系。ロレーヌ公アントアーヌの弟クロードClaudeが,フランス国王フランソア1世の下で戦い,その戦功によりギーズGuise公領を授与されたことに始まる(1528)。ロレーヌ公領は,1735年フランスに帰属するまで独立した公国であったから,それに連なるギーズ家も,フランスの貴族となりながら,依然半ば外国勢力と見なされ,疑いの目で見られることが多かった。ロレーヌ公家ともども,熱烈なカトリックの信仰で知られ,家門から何人もの枢機卿を出したが,16世紀のヨーロッパを二分する新旧両派の宗教戦乱の過程で,旧教派の指導者として勇名をはせた。クロードの娘のマリーMarieがスコットランド王妃となり,その娘メアリー・スチュアートがフランス国王フランソア2世の妃であったことから,ギーズ一門は1559年,国王の外戚として国政実権を掌握する。これがきっかけとなり,フランスでは新旧両派の信仰上の対立に加え,王権をめぐる勢力争いが激化し,40年に及ぶ宗教戦争勃発する(1562)。戦乱の渦中にあって,第2代フランソアFrançoisも,第3代アンリHenriも,武人として,また政治家として卓越した指導力を発揮し,旧教派民衆の強い支持をえた。宗教戦争末期,〈向こう傷のアンリHenri le Balafré〉の名で知られた若きギーズ公は,妥協を排する過激派カトリックの首領として〈旧教同盟〉を創設(1576),スペインの支持もえて,新教徒アンリ・ド・ナバール(のちのアンリ4世)の王位継承を阻止しようとしたが,88年弟のギーズ枢機卿ともども刺客の手に倒れた。その後は,アンリの弟マイエンヌ公シャルルCharles,Duc de Mayenneが〈旧教同盟〉の指導者となるが,96年帰順し,即位したアンリ4世の権威に服した。ギーズ家の権勢は以後弱体となり,かつての名声を回復することはなかった。ギーズ家の所領は1704年結婚のためコンデ家に移り,次いでオルレアン家の手に移る。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ギーズ家」の意味・わかりやすい解説

ギーズ家
ぎーずけ
Maison de Guise フランス語

16世紀に活躍したフランスの名門で、ロレーヌ公家の分家。1333年にギーズ伯の称号を獲得。1528年ギーズ公となる。初代はクロード・ド・ロレーヌClaude de Lorraine(1496―1550)で、国王フランソア1世(在位1515~47)の忠臣として活躍した。その子フランソア・ド・ロレーヌFrançois de Lorraine(あだ名は「向こう傷」)(1519―63)は、宗教戦争の勃発(ぼっぱつ)とともに旧教派の首領として行動し、オルレアン攻囲のおりポルトロ・ド・メレによって殺された。3代はアンリ・ド・ロレーヌHenri de Lorraine(1550―88)で、父と同じあだ名をもち、ラ・リーグ(旧教同盟)の指導者。彼は、国王アンリ3世によって暗殺された。4代以降はフランス国王に服属し、ギーズ家は1675年に血統が絶え、その後公領はコンデ家に移り、1832年にはオルレアン家に渡った。

[志垣嘉夫]

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世界大百科事典(旧版)内のギーズ家の言及

【ユグノー戦争】より

…こうして,59年には,第1回全国改革派教会会議がパリで開催され,教義面でも規律面でも明確な組織化がはかられるに至り,新旧両教会の決裂は決定的となった。これに加え,同じ59年には,アンリ2世が没し幼王フランソア2世が即位するが,これを期に新王の外戚に当たるカトリックの指導者ギーズ一門(ギーズ家)が政権を掌握することとなり,これに対抗するブルボン一族やコリニー提督など反ギーズ派の貴族層はプロテスタントに接近する。こうして,〈宗教のユグノー〉は〈政治のユグノー〉へと大きく変容し,内乱勃発の条件は整った。…

※「ギーズ家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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