クリーク(読み)くりーく(英語表記)Ernst Krieck

デジタル大辞泉 「クリーク」の意味・読み・例文・類語

クリーク(creek)

中国の平野部などにみられる、灌漑かんがいや交通に利用される小川・小運河
ゴルフで、コースを流れている小川。

クリーク(cleek)

ゴルフで、ウッドクラブ5番の称。5番ウッド。

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精選版 日本国語大辞典 「クリーク」の意味・読み・例文・類語

クリーク

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] creek ) 中国の平野部などに多い排水、灌漑、交通を目的とした小運河。〔ユーモア・モダン語辞典(1932)〕
    1. [初出の実例]「楊柳の並んだクリークとその両岸にひろがった田圃と」(出典:生きてゐる兵隊(1938)〈石川達三〉一)

クリーク

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] cleek ) ゴルフのクラブで、五番ウッド。打面が鉄で幅が狭く長い。
    1. [初出の実例]「逆風だもの…今度はクリークで打った方がいいよ」(出典:真理の春(1930)〈細田民樹〉島の噴煙)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「クリーク」の意味・わかりやすい解説

クリーク(Ernst Krieck)
くりーく
Ernst Krieck
(1882―1947)

ドイツ教育学者。フェーギスハイムに生まれる。カールスルーエ師範学校卒業(1900)ののち、マンハイムの小学校教師をしながら社会史、文化史、教育史の研究を続けた。フランクフルト・アム・マインの教育大学教授(1928)を経て、ハイデルベルク大学総長となった(1933)。ヘルバルト以来の従来の教育学を個人主義的、規範的、技術的教育学であると批判し、それに対して現実的、客観的事象としての教育事実の叙述、認識を目的とする教育科学Erziehungswissenschaftの樹立を唱えた。彼によれば、教育とは、他の社会機能と密接な連関をもつ社会の根源的機能であり、社会が生活秩序、価値などの文化を通してその成員を類型同化する過程であるとされた。しかも、社会の包括的、本源的母体を民族国家と考え、これを諸機能の統一原理とすることにより、その教育科学は民族主義的、国家主義的性格を濃厚にした。

 主著『教育の哲学』(1922)、『文化民族の教育組織』(1927)などにおける教育理念や、『自由ドイツ学校』誌上での中央党社民党への攻撃は、ナチス政府の迎えるところとなり、その理論的イデオローグの役を果たすこととなった。

[舟山俊明]


クリーク(民族)
くりーく
Creek

かつてアメリカ合衆国のジョージア州アラバマ州に住んでいたマスコギー(ムスコギーともいう)語系の北米先住民(アメリカ・インディアン)。1950年にはオクラホマ州に約5万人、アラバマ州に約500人が住んでいた。現人口は4万5872人(1990)。

 トウモロコシカボチャ、豆類を栽培したが、農耕は主として女性の仕事で、男性は狩猟と戦いに携わった。50以上の母系トーテム氏族に分かれ、それらが胞族をなしていた。村は白組と赤組の二つの地域集団に分かれ、前者は平和の儀礼、後者は戦争の儀礼をつかさどっていた。クリークの社会には世襲的な身分の違いはなかったが、個人的能力、たとえば戦場での功績によって階級ができていた。側面に階段をつけた台形状に盛り土をし、その上に草葺(くさぶ)きのドーム状屋根をもつ宗教用建造物をつくった。

 1813~14年のクリーク戦争に敗れたのち、クリークは一部を残してオクラホマ州に強制移住させられた。現在では、もともとの彼らの固有の言語や文化はほとんど失われている。

[板橋作美]


クリーク(水路)
くりーく
creek

デルタ(三角州)その他の低湿地につくられた人工的水路。日本の佐賀平野や中国の揚子江(ようすこう)・珠江(しゅこう)、インドシナ半島のメコン川、タイのチャオプラヤー川のデルタにみられる。これらの低湿地帯の開拓史をみるとクリークが人工的に掘られたことがわかり、ほとんどの集落へはクリークが通じ、物揚げ場がつくられ、各家は小舟をもっている。クリークは灌漑(かんがい)、排水や交通(舟運)に使われ、底の泥土は肥料とされ、生産と生活の両面に大きく利用されている。

[浅香幸雄]

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改訂新版 世界大百科事典 「クリーク」の意味・わかりやすい解説

クリーク
Ernst Krieck
生没年:1882-1947

ドイツの教育学者。フェーギスハイムの生れ。師範学校卒業後,20年間小学校教師として働きながら,民族誌,教育学,文化史等の研究に励み,1923年ハイデルベルク大学から名誉学位(哲学)を授与された。28年にフランクフルト・アム・マインの教育大学教授に就任,34年にはハイデルベルク大学教授となり,それ以降ナチス・ドイツの教育界における最高指導者として活躍した。教育学史上に特筆さるべきは,その教育科学論であろう。彼は従来の教育学を当為的課題にしばられた技術学であると批判し,社会的根本機能としての教育事実の客観的認識と究明を任務とする純粋教育科学を提唱したが,この点はデュルケームと類似した主張として注目される。しかし民族とその機関である国家を教育の最高原理とする彼の民族共同体的理論は,時代の政治的潮流とも重なり,ナチス国家の御用理論の役割を果たした。彼の教育理論は第2次大戦にかけての国家主義的風潮の中で,日本の教育学界にも影響を及ぼした。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クリーク」の意味・わかりやすい解説

クリーク
Krieck, Ernst

[生]1882
[没]1947
ドイツの教育学者。ナチス時代の教育界における理論および実践運動の指導者。教員養成校を卒業後,小学校教師のかたわら,民族誌・教育史などを研究し,『教育の哲学』 Philosophie der Erziehung (1922) を著わす。 1928年フランクフルト・アム・マイン教育大学,ハイデルベルク大学教授に就任。ヘルバルト以降の伝統的教育学を当為的課題の技術学と批判し,教育学を事実の客観的認識から出発する一個の科学 (「純粋教育科学」) としてとらえ,教育過程を「共同社会がその成員を類型的に同化していく過程」と定義した。しかし,民族と国家を教育の最高原理とする民族共同体的理論は,ナチスの利用するところとなり,彼の研究課題も民族教育の確立へと移っていった。

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百科事典マイペディア 「クリーク」の意味・わかりやすい解説

クリーク

アメリカ・インディアンの一つで,かつては米国南東部に居住。ムスケギ系の言語を話す。周辺部族とクリーク同盟を形成して白人入植者と戦ったが,のちに祖先の土地を追われ,オクラホマ州に強制移住させられた。約4万5000人。

クリーク

インフォーマル・グループの一つ。公的な組織(官庁や企業など)の中に形成される下位集団で,成員間に情緒的な相互接触が保たれ,不文律的な習慣や掟(おきて)があるなどの特徴をもつ。社会的身分のほか門閥,学閥,年齢,性別などからくる親近性を契機として形成される。公的組織を動かす力を発揮することもある。

クリーク

ドイツの教育学者。小学校教師を20年務めたのち,ハイデルベルク大学等の教授。教育を社会の根本機能とみて,その本質を現象学的に探究する教育科学を提唱し,また諸民族の教育事象を比較考察した。国家・民族を最高原理とする彼の教育学はナチス政権下で指導理論となった。主著《教育哲学》。

クリーク

一般に小川,海や湖の入江をさすが,特に揚子江下流デルタ地帯に発達する網目状水路(多くは人工)をいう。灌漑(かんがい),排水,舟運に利用。

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367日誕生日大事典 「クリーク」の解説

クリーク

生年月日:1882年7月6日
ドイツの教育学者
1947年没

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世界大百科事典(旧版)内のクリークの言及

【教育学】より

…この教育の科学は社会学的方法により変化の法則性を認識しようとするものであり,明らかに旧来の教育学とは違う。ドイツの教育学者E.クリークも,〈教育科学は教育とは何であるか,教育はいかにして行われるかを問うところから始まるのに対し,教育学は私は教育者として何を為さなければならぬかを問う〉とした。このように19世紀から20世紀にかけて教育科学が提唱されたが,それによって旧来の教育学が志向していたものを無視してよいということにはならない。…

※「クリーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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