グルック(その他表記)Christoph Willibald Gluck

デジタル大辞泉 「グルック」の意味・読み・例文・類語

グルック(Christoph Willibald Gluck)

[1714~1787]ドイツの作曲家。劇的表現を尊重するオペラ改革を行う。作品オルフェオとエウリディーチェ」など。

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精選版 日本国語大辞典 「グルック」の意味・読み・例文・類語

グルック

  1. ( Christoph Willibald Gluck クリストフ=ウィリバルト━ ) ドイツの作曲家。従来のオペラを改革して音楽劇的性格を与え、ワーグナー以前の最大のオペラ改革者とされる。作品「オルフェオとエウリディーチェ」「アルチェステ」「アウリスのイフィジェニ」など。(一七一四‐八七

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改訂新版 世界大百科事典 「グルック」の意味・わかりやすい解説

グルック
Christoph Willibald Gluck
生没年:1714-87

ドイツのオペラ作曲家。最初期を除いて,創作活動はほとんどもっぱら劇音楽に向けられたが,なかでもオペラ創作は43作に及び,18世紀のオペラ改革者といわれ,オペラ史では重要な位置を占める。

 1737-41年にミラノで作曲家サンマルティーニの指導下にあったが,同地で41年12月に初演された《アルタセルセ》が,以後ほぼ40年間にわたるオペラ創作活動の出発点となる。45年ロンドンに渡り自作上演。以後巡業一座に加わるなどして各地を転々としたのち,52年末以後ウィーン定住。このときまでに16作のオペラを手がけているが,おおむね伝統的なイタリア・オペラの様式に従っていた。ウィーンでは,フランス大使を経て宰相に就任したカウニッツ伯の主導によって,演劇界にフランス趣味が導入され始めており,グルックはまずフランスのオペラ・コミックをウィーン風に改作することを求められる。やがて彼自身も58年から64年までに8作のオペラ・コミックを書いた。そうした過程を通して,イタリア・オペラのなかにフランス精神を溶け込ませ,そのうえ音楽と演劇のバランスを改める,いわゆる〈改革オペラ〉が,台本作者R.カルツァビージの協力のもとに,生まれていく。そのねらいは,自身語るところによれば,不必要な音楽的装飾と歌手の技巧の優先を排して,〈単純,真実,自然〉を最大の導き手とし,〈詩に表現を与え,劇的状況を強めるためという本来の目的に沿って〉音楽を用いることであった。このような意図のもとに《オルフェオとエウリディーチェ》(1762)や《アルチェステ》(1767),《パリデとエレナ》(1770)が書かれた。73-79年には5度パリを訪れて,再びフランス語でオペラを書き,またイタリア語の旧作をフランス・オペラに改訂・上演し,大成功を収めた。ことに《アウリスのイフィジェニ》(1774),《アルミード》(1777),《タウリスのイフィジェニ》(1779)は彼の代表作となった。パリでの成功を娘マリー・アントアネットから伝え聞いたマリア・テレジアは,74年に彼をウィーンの宮廷作曲家に任じ,好遇した。またパリでは,1752年のブフォン論争以後もくすぶり続けていたフランス・オペラ対イタリア・オペラの優劣の競い合いに巻き込まれ,ピッチンニと同一台本で作曲を競うという,陰謀渦巻く争いの当事者にさせられた。これは一般にグルック=ピッチンニ紛争といわれる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「グルック」の意味・わかりやすい解説

グルック
ぐるっく
Christoph Willibald Gluck
(1714―1787)

18世紀ドイツのオペラ作曲家。イタリア、フランスの伝統的オペラを改革し、自然な表現による簡素なオペラ様式を確立した。7月2日、エラスバッハに生まれる。1731年プラハ大学に入学、35年か36年にウィーンに進出、ロンバルディアの貴族メルツィに伴われてミラノに赴き、37~41年サマルティーニに師事する幸運を得た。処女作『アルタクセルクセス』などの成功でオペラ作曲家としてスタート、45年ロンドン招聘(しょうへい)ののち、ハンブルクでミンゴッティのオペラ一座に入りドレスデン、ウィーン、プラハ、コペンハーゲンなどを巡業。50年ウィーンの銀行家の娘と結婚し、この地での将来への基盤をつくる。52年ナポリでの『ティトゥス帝の慈悲』大成功ののち、ウィーンに定住。ザクセン・ヒルトブルクハウゼン家の音楽会を地盤に、しだいに帝室に進出、56年にはローマで『アンティゴノス』を初演、教皇より黄金拍車勲章を授与され騎士となる。イタリア・オペラ、フランス・オペラ・コミックをウィーン宮廷のために書いていたが、62年『オルフェオとエウリディーチェ』をウィーンで上演、イタリア・オペラ改革ののろしをあげる。演劇性の重視、レチタティーボの心理表現の強調などが主旨であった。

 1772年以来パリにも進出、『アウリスのイフィゲネイア』『オルフェとウリディス』(1762年版のフランス語による改訂)によりフランス・オペラ界に波紋を投じ、「グルック‐ピッチンニ論争」がおこるが、79年の『タウリスのイフィゲネイア』の大成功は、彼の評価を決定的なものとした。すでに74年に宮廷作曲家の称号を得ていたグルックは、安楽な晩年をウィーンで過ごし、87年11月15日同地で没した。

[樋口隆一]

『グラウト著、服部幸三訳『オペラ史 上』(1957・音楽之友社)』

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百科事典マイペディア 「グルック」の意味・わかりやすい解説

グルック

ドイツのオペラ作曲家。ドイツに生まれ,チェコ(ボヘミア)で育ち,ウィーンとパリで活躍。18世紀のオペラ改革に重要な役割を担った。若き日の音楽的経歴はほとんど不明だが,その後プラハでの勉学を経て,1737年−1741年ミラノで作曲家G.B.サンマルティーニに師事。1741年オペラ第1作を発表し,1745年にロンドンに渡ってヘンデルと親交を結ぶ。その後イタリア・オペラの一座の指揮者としてヨーロッパ各地を巡演し,1752年以後ウィーンを活動の拠点に定めた。オペラ・コミック(オペラ)を発表する一方,台本作者R.カルツァビージ〔1714-1795〕の協力を得て,いわゆる〈改革オペラ〉の作曲にとりかかり,1762年その第1作《オルフェオとエウリディーチェ》(1762年)を発表。過剰な音楽的装飾と歌手の技巧誇示を排し,ドラマ性に重きをおいたオペラの創造を提唱して後世に多大の影響を与えた。1774年《アウリスのイフィジェニ》のパリ初演の成功がもとで,N.ピッチンニ〔1728-1800〕の一派と論争になり,同じ台本による《タウリスのイフィジェニ》(1779年)の競作で優劣を決した。生涯に43作のオペラを残している。→ディッタースドルフ
→関連項目三浦環

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「グルック」の意味・わかりやすい解説

グルック
Gluck, Christoph Willibald

[生]1714.7.2. エラスバハ
[没]1787.11.15. ウィーン
ドイツの作曲家。プラハ,ウィーンで学んだのち,ミラノで G.サマルティーニに師事,最初のオペラ『アルタセルセ』 (1741) を発表。 1750年頃からウィーンに活動の本拠をおき宮廷音楽作曲家となる。台本作家 R.カルザビージ,バレエ振付師 G.アンジョリーニらの協力を得てオペラの改革に着手,従来の技巧的なソロのアリアに重点をおいたイタリア・オペラの作風から,合唱,管弦楽を有機的に駆使して劇的表現を深めた作風に転じ,『オルフェオとエウリディーチェ』 (62) ,『アルチェステ』 (67) ,『パリーデとエレナ』 (70) を発表。 72~79年パリで,『アウリスのイフィゲーニエ』 (72) ,フランス語版『オルフェオ』 (74) ,『タウリスのイフィゲーニエ』 (79) を発表。晩年はウィーンで過す。オペラのほか,歌曲,協奏曲など多数の作品がある。

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世界大百科事典(旧版)内のグルックの言及

【ダフニスとクロエ】より

…母音を歌う合唱,古代ギリシアに由来するといわれるクロタル(古代風小型シンバル)などを加えた大編成の管弦楽は,この巨大な壁画を描くラベルの重要なパレットの役割を果たしている。同じ原作による作品として,他にグルックのフランス・オペラ《包囲されたキュテラ島》(1759),J.J.ルソーの未完のオペラ《ダフニスとクロエ》(1779)などがある。【小場瀬 純子】。…

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