翻訳|Dresden
ドイツ東部,ザクセン州の州都。人口48万7421(2004)。エルベ川に沿う。精密・光学機器製造や電機,機械,化学,織物工業などが行われる。16世紀以降芸術と文化の都となり,〈エルベのフィレンツェ〉と呼ばれる。19世紀に工業都市に発展し,1828年工業大学が設置された。第2次大戦末期に米英の大空襲を受けて壊滅し,3万5000とも13万5000ともいわれる死者を出した。戦後は,フラウエン教会の残骸を平和記念碑として残したほかは,ツウィンガー宮殿などの歴史的建造物や町並みが計画的に修復,再建されている。またこの町は,高い音楽的伝統を誇り,ドレスデン国立管弦楽団(1548年宮廷楽団として創立),ドレスデン国立歌劇場をもつ。
年平均気温8.4℃,年間降水量595mmとドイツでは気候も温和で,新石器時代以前から人類が定住し,6世紀ごろにはスラブ系ソルブ人が定着する(ドレスデンはスラブ語で〈森の住人〉の意)。12世紀マイセン辺境伯がエルベ左岸にドイツ人の町を建設したころにも,右岸にはソルブ人の町が存在していた。1216年にはドイツ法による都市となったが,1319年ウェッティン家Wettinerの辺境伯が復古して以来その支配下にあった。45年と68年にはツンフト闘争も起こり,1433年手工業親方が市政に参加している。85年ウェッティン家分立後はアルベルト系の城都となり,1539年宗教改革を受け入れるが,シュマルカルデン戦争では皇帝側に立ってザクセン選帝侯の都になる。三十年戦争で,1635年プラハ条約によりラウジッツが選帝侯領に加えられると,ドレスデンはエルツ山脈の鉱山地帯と広い農村繊維工業地域を後背地にして経済的に繁栄する。トルコ戦争に参加し,ポーランド王(アウグスト2世)も兼ねた選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(強王)Friedrich-August Ⅰ(1670-1733)の時代には,18世紀ドイツ・バロックの真珠といわれるフラウエン教会,ツウィンガー宮殿,日本宮殿なども建設され,マイセン磁器もこのころ始まる。3回にわたるシュレジエン戦争,ついでナポレオン戦争による戦禍を受け,政治的には衰退した。しかし16世紀以降,とくに18世紀に,歴代選帝侯はルネサンス以来の名画や陶器,宝石などを収集し,その豊かな文化財は再建されたツウィンガー宮殿などに今日も展示されている。(ドレスデン国立絵画館)。神聖ローマ帝国の解体により1806年ザクセン王国の首都となり,以後,中東部ドイツの先進工業地帯の中核都市に発展した。三月革命最後の闘争といわれる49年5月のドレスデン蜂起の伝統を受け,19世紀後半には社会運動,労働運動の拠点となり,ドイツ社会民主党の重要な地盤であった。1918年11月ザクセン共和国を宣言,20年のカップ一揆に直面したワイマール政府は一時ここに避難した。第2次大戦では45年に大空襲をうけ,5月8日ソ連軍により解放された。
執筆者:進藤 牧郎
ドレスデンはドイツ有数の芸術都市として,すでに1705年には絵画アカデミーが創設されたが,おおむねフランスあるいはイタリアの芸術にならうだけで,独自の芸術を生むには至らなかった。18世紀末に北ドイツ出身の画家C.D.フリードリヒが登場し,それまでの擬古典主義的な風景画とは異なる,内面感情を自然に投影させた独自の芸術を確立した。彼の周辺には,哲学者で精神医学の先駆者でもあったカールス,ノルウェー人のダール,いわゆるビーダーマイヤーの代表的画家の一人ケルスティングGeorg Friedrich Kersting(1785-1847)などの画家が集い,ドレスデンはベルリン,イェーナと並び,ドイツ・ロマン主義運動の一拠点となった。ルンゲも1801-03年,当地で活動。これ以後のドレスデンの美術はしばらく沈滞気味であったが,20世紀初頭に〈ブリュッケ〉が結成されてドイツ表現主義の牙城の一つとして再び脚光を浴びた。
執筆者:千足 伸行
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツ中東部、ザクセン州の州都。1949~90年は旧東ドイツに属した。エルベ川に沿う標高106メートルの地にあり、人口47万7800(2000)。州の商工業、交通、教育、文化の中心地である。エルベ川の両岸に発達し、両岸は七つの橋で結ばれている。年平均気温は9℃。冬は温和で、春の訪れも南ドイツのネッカー川の谷と同じくらい早い。工業は19世紀後半におこり、第二次世界大戦後に発展し、カメラ、テレビ、X線撮影装置などの精密光学機械のほか、伝統的なたばこ、食品工業(とくにビール醸造)が立地する。第二次世界大戦で都心部は破壊されたが、戦後、古い町の特色を保存するよう努力が払われ、「アルプス北のフィレンツェ」ともよばれるようになり、ツウィンガー宮殿、教会、王城など、昔のおもかげがそのままに復旧された。ツウィンガー宮殿はドイツ文化遺産の宝庫で、宮殿内が各種の美術館、博物館となっており、ラファエッロの『システィナの聖母』はその代表的な所蔵作品である。工業総合大学、工芸大学、音楽大学、陸軍大学など高等教育機関も多い。市の北側の山地斜面にはブドウが栽培されている。またエルベ川北側には計画的道路をもつドレスデン新市があり、日本庭園もある。
[佐々木博]
マイセン辺境伯領のスラブ人集落の近くにおこり、13世紀に都市になり、15世紀に裁判権、指定市場権を獲得した。当時の人口は約4000であった。1485年の分割でアルベルト系ウェッティナー家領に属し、16世紀後半ザクセン選帝侯国の首都として栄えた。エルベ川左岸の旧市はオランダ風に石の塁壁(るいへき)と稜堡(りょうほ)で囲まれ、美術工芸の中心地となった。三十年戦争後の100年余りはバロック文化の花開く黄金時代で、ツウィンガー宮殿、アウグスト橋、グローサー・ガルテン(大公園)、右岸の新市がつくられ、人口は約5万となり、美術工芸品と陶磁器の収集で名高く「エルベ河畔のフィレンツェ」とよばれた。七年戦争、ナポレオン戦争で被害を受けたが復興し、19世紀には鉄道の交点であることから各種工業が発達した。外国人居住者が多く、河畔のテラスは「ヨーロッパのバルコニー」といわれた。1945年2月の空襲で市の中心部は壊滅した。46年ザクセン州の州都、52年以降は旧東ドイツのドレスデン県の県都、90年のドイツ再統一後、ザクセン州の州都となった。
[諸田 實]
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ドイツ,ザクセン州の首都。もとザクセン王国の宮廷都市として繁栄し,その華麗なバロック建築と王室の美術品収集により「エルベ河畔のフィレンツェ」と呼ばれた。1945年2月13~14日の英米空軍の絨毯(じゅうたん)爆撃で都心は完全に破壊,6万人の犠牲者を出して「ドイツのヒロシマ」とも呼ばれる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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