パリ近郊で,とくに17~18世紀,国王の庇護を受けて作られたタピスリー(ヨーロッパの綴織(つづれおり))をさす。その名は広く世界に知られ,ゴブラン織はタピスリーの代名詞としても用いられる。
フランスでは中世後期にパリやアラスなどを中心にタピスリーが盛んに織られていたが,百年戦争による荒廃などが原因で15世紀半ば以降,その生産は衰退していた。そのため中心地はトゥルネー,ブリュッセルなどフランドル地方(現在のベルギー)に移り,ルネサンス様式を取り入れた新しい様式のタピスリーも同地方で織られていた。フランソア1世はフォンテンブロー宮殿の装飾という大事業に際し,自国にタピスリー工房のない不便さを痛感し,1540年ごろフォンテンブローに工房を設置したが,十分な成果をあげるに至らなかった。次いで,アンリ2世はパリのラ・トリニテ病院内に工房を設置した。アンリ4世(在位1589-1610)の時代に入って,高価なタピスリーを自国で生産し,輸入による財貨の流出を防ごうとする気運がさらに高まり,本格的な製作所設置の努力が始められた。1601年アンリ4世はフランドルから約200人の織匠を呼び寄せ,パリ近郊のビエーブル河畔,サン・マルセル通りにある,代々の染色業者ゴブランGobelin家の館に住まわせた(ゴブラン織の呼称は同家の名に由来する)。ここの製作所の責任者にはマルク・ド・コーマンスMarc de Coomansとフランソア・ド・ラ・プランシュFrançois de la Plancheが任命され,ゴブラン製作所の基礎が築かれた。同年,植物文様(ベルデュール)の外国製タピスリーの輸入が禁止され,国家産業をその育成段階で保護するという政策がとられた。しかし,この製作所は国王のあつい庇護下にあったとはいえ,あくまでも私的企業であった。また,すぐれた織匠だけではなく,すぐれた下絵画家の必要も叫ばれ,ルイ13世(在位1610-43)時代には当代一流の画家S.ブーエが王の下絵画家に任命された。
62年,ルイ14世時代に,宰相コルベールはゴブラン家の館を王の名で買い取り,67年ここに王立家具製作所Manufacture des meubles de la Couronneを設立し,画家C.ル・ブランを総監督に任命した(ここでは,タピスリーばかりでなく,家具,金銀・宝石細工など王家用の調度品すべてが生産されることになった)。パリの各地に散在していたタピスリー工房はすべてここに集められ,ル・ブランの厳格な監督のもとにおかれ,徒弟のための学校も設置された。外国のタピスリーの輸入は全面的に禁止され,原料は王から提供された。フランス国王の権威を象徴するベルサイユ宮殿のような広大な建物の部屋部屋を飾るためには,数多くの質の高いタピスリーが王立製作所で作られ,供給されることが必要であった。ル・ブランは伝統的な織物の技術を尊重しながら,総監督が完全に製作所を掌握することによって,すぐれた下絵がすぐれた技術によって忠実に再現されることに最大の注意を払い,下絵のために優秀な画家を集めた。ル・ブランの代表作にはルイ14世一代記(1663-73)があり,これは14枚を1セットとして,王の偉大な生涯を,豪奢な織物の効果を駆使して表現している。ゴブラン織の主題はアレクサンドロス大王一代記のような歴史物,古代神話や聖書の主題,月暦図や四季図,狩猟図や宮廷の娯楽を表したものなど多種多様である。たて糸の数は中世には1cmにつき5~6本であったものが6~8本に増えて織りはより繊細になり,また色数も濃淡の変化を微妙にすることによって増え,ルネサンス以降の絵画の特質である三次元的空間のイリュージョンと人物の立体感を織物に再現することに成功している。
18世紀には,C.A.コアペル,ブーシェらが下絵を提供したが,フランス革命以後ゴブラン製作所は衰退する。その後,19世紀後半に,ゴブラン製作所の染色監督官の任(1824-89)にあった化学者シュブルールらによって再び活気が取り戻された(シュブルールが在官中に公刊した色彩理論は,印象主義,とくにディビジョニスムの形成に大きく寄与する)。20世紀になってジャノーG.Janneauの指導下(1935-45)に,絵画の模倣ではなく,織物としての独自の価値をもつ作品を制作するための努力が行われた。現在フランスでは,オービュッソン,ボーベでもタピスリーの制作が行われている。
→タピスリー
執筆者:荒木 成子
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フランスのゴブラン織物工房で織られた綴織(つづれおり)の作品をさすが、広く壁掛けとして用いられる綴織(タペストリー、タペスリーともいう)をも含めたものとして使われることがある。ゴブランの名称は、1440年ごろパリに住んでいた染織家ジャン・ゴブランJean Gobelinの一家をさし、この製作が受け継がれた。綴織は古くから各地で製作されていたもので、多くの色糸を緯糸(よこいと)に自由に使い、小部分ずつ平織にして織り進めるもので、緯糸が織幅全体に通っていない。そのため「ハツリの目」という空間が色の境目に経(たて)方向に沿ってできるが、ゴブラン織では、色糸を互いに絡め合い、すきまができないようくふうされており、これをゴブラン技法といっている。したがって綴織に多くの時間と熟練を要するが、自由に模様を表現できることに特徴がある。このゴブラン工房はのちにルイ14世によって買収され、王立工場の製作品として勢力的に外国へも輸出して外貨を獲得するため、拡大化が図られた。綴織は絵画を忠実に表現できるため、著名な画家に下絵を求め、豪華な壁掛けを製作した。このような作品は、ルーブル美術館その他に保存されているが、最盛期にあったのはルイ14世の時代で、作品の構図、規模、色彩などに華やかな特徴がみられる。しかしフランス革命以後、単なる名画を綴織でコピーする衰退傾向がみられたが、第二次世界大戦後に至り再興が図られた。
[角山幸洋]
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…以後タピスリーは絵画に従属するものとなり,下絵を忠実に写すために中間色を増やし,複雑微妙な色調の変化を追求するようになる。また,フランスでは王権が強まるにつれて,高価なタピスリーを外国(スペイン領フランドル)から輸入するのに要する莫大な経費を削減するために,自国のタピスリー工房の育成につとめ,やがて17世紀初頭にゴブラン製作所が設立され,いわゆるゴブラン織の生産が始まる。スペインにも王立工場が設立され,ゴヤは一時期下絵画家として活躍した。…
…その伝統は明・清へと受けつがれた。ヨーロッパでは主として王家の肖像や,聖書物語など宗教的な主題に基づいた綴の壁掛が中世より製作されはじめ,その伝統は近世のゴブラン織によって代表される。 日本には,遺品のうえでは奈良時代から綴の優品が若干伝えられているが,いずれも外国からの輸入品と考えられている。…
※「ゴブラン織」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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