日本大百科全書(ニッポニカ) 「ザッパ」の意味・わかりやすい解説
ザッパ
ざっぱ
Frank Zappa
(1940―1993)
アメリカの作曲家、ロック・ギタリスト。ボルティモアでイタリア系アメリカ人の家庭に生まれる。少年時代にドラムを始めてリズム・アンド・ブルースのバンドを組んでいたが、同時にエドガー・バレーズやイゴール・ストラビンスキーといった前衛的な作曲家の音楽に出会い、十二音技法など現代の作曲法にも関心をもつ。10代の終わりには楽器をドラムからギターに代えてバンド活動を続けていたが、一方で1961年には映画のサウンドトラックとしてオーケストラのための作曲も行っている。64年にカリフォルニアで小さなレコーディング・スタジオを所有するが、おとり捜査の警官に依頼されてポルノ・テープを制作したという容疑をかけられて風紀違反で逮捕され、有罪判決を受ける。
64年にマザーズを結成、フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インベンション名義による『フリーク・アウト』(1966)でレコード・デビューしている。75年の『ズート・アリュアーズ』まではアルバム名義にはグループ名が併記されていたが、76年の『ボンゴ・フューリー』以降はザッパだけの名義になる。しかしライブやレコーディングにはバンドが参加し、ザッパの音楽的発想の実現を支えた。バンドの音楽性はロックを土台としながらもジャズやクラシックの音楽語法を多く取り入れており、またミュージカルのような物語性が作品ごとに与えられていることも多い。それだけに、高い演奏能力を要求するザッパの意向から、バンドは何度もメンバー・チェンジを繰り返し、やがては10人を超える大所帯となった。しかし一方で、レコード作品ではバンド演奏だけでなく、コラージュや多重録音といったスタジオでの作業が大きな比重を占めており、ライブ演奏の録音がその素材となることもしばしばあった。
社会的・文化的な面では一貫した反骨の精神によって知られている。アメリカ社会における不自由さや保守性に対してつねに不満をもらしながら、それを音楽による風刺という形で表現しようとした。とりわけ、風紀違反で逮捕された一件に象徴されるように彼の音楽が猥褻だと槍玉に上げる人々に対しては法廷などで争うと同時に、みずからが出席した公聴会における議員の発言をコラージュした『ミーツ・ザ・マザーズ・オブ・プリヴェンション』(1985)を作るなど、その姿勢が顕著に表れている。数多く出回った自身の海賊盤を再編集して正規盤として発表した「ビート・ザ・ブーツ!」シリーズにも同様のパロディー精神が見られる。
初期の作品から録音技術を駆使していたように、つねに最先端の技術を音楽に取り込むことに貪欲であったが、サンプリング技術とコンピュータ・プログラミングによって大がかりな自動演奏を可能にしたニュー・イングランド・デジタル社のシンセサイザー・システム「シンクラビア」との出会いは、1980年代以降のザッパの音楽性にさらなる変化をもたらした。『ジャズ・フロム・ヘル』(1986)のように、複雑なアイディアをより忠実に音にするための手段として、バンド演奏の代わりにシンクラビアを用いた作品がいくつか作られた。このようなザッパの姿勢はロック・ミュージシャンよりむしろ、彼が子供のころから影響を受けたバレーズやストラビンスキーのような西洋芸術音楽の作曲家に近いといえる。実際にこのころには作曲家・指揮者のピエール・ブーレーズに作曲を依頼され、オーケストラによって演奏された『パーフェクト・ストレンジャー』(1984)など、クラシック音楽と接近した。その方向性は、過去の楽曲を編曲してドイツの現代音楽グループ、アンサンブル・モデルンが演奏したライブ録音『イエロー・シャーク』(1993)によってさらに追求されるが、この時にはすでにザッパの身体は癌におかされており、53歳で亡くなった。
[谷口文和]
『フランク・ザッパ&ピーター・オチオグロッソ著、三沢枝津子訳『ザ・リアル・フランク・ザッパ・ブック』(1991・白夜書房)』▽『マイルス著、浜野アキオ訳『フリーク・アウト――フランク・ザッパの生活と意見』(1994・ブルース・インターアクションズ)』▽『「特集 フランク・ザッパ――越境するロック」(『ユリイカ』1994年5月号所収・青土社)』▽『大山甲日著『大ザッパ論――20世紀鬼才音楽家の全体像』(1998・工作舎)』▽『大山甲日著『大ザッパ論2――鬼才音楽家の足跡1967―1974』(2001・工作舎)』