日本大百科全書(ニッポニカ) 「ストラビンスキー」の意味・わかりやすい解説
ストラビンスキー
すとらびんすきー
Igor Stravinsky
(1882―1971)
ロシア生まれの作曲家。スイス、フランス、アメリカに住み(1945年アメリカ市民権を獲得)、20世紀音楽の歩みの先頭にたって、芸術音楽の展開に決定的な影響を与えた。
1882年6月17日、ペテルブルグ近郊に生まれる。父はマリンスキー劇場の有名なバス歌手。早くから音楽に親しんでいたが、両親の希望で官吏の道を目ざしてペテルブルグ大学の法学部に入学。20歳の夏に作曲家になる決心を固め、リムスキー・コルサコフに師事し、作曲の基礎を学び、1907年に四楽章からなる本格的な作品、交響曲変ホ長調(作品1)を発表した。09年2月、『スケルツォ・ファンタスティック』(1908)と『花火』(1908)がロシア・バレエ団の主宰者ディアギレフに認められ、この2人のコンビによる同バレエ団の栄光の時代が開始される。いずれもパリで初演された『火の鳥』(1910)、『ペトルーシュカ』(1911)、『春の祭典』(1913)の三大バレエ作品は、ロシアの伝統的な民話風の題材を用い、ロシア民謡風の五音ないし六音の旋律、大編成のオーケストラの斬新(ざんしん)な響き、小節線の存在をまったく無視した複雑なリズムを使った音楽で、その激しいエネルギーに満ちた原色的で表出的な音楽は、パリとヨーロッパの音楽界に大きなセンセーションを巻き起こし、新鋭作曲家ストラビンスキーの名前は全ヨーロッパに広まった。三大バレエ作品以後、第一次世界大戦とロシア十月革命によって故国に帰れなくなり、スイスの各地を転々としながら、『きつね』(1916)、『兵士の物語』(1918)など小編成の作品を作曲して、次の新古典主義の作風を準備した。
1920年の『プルチネッラ』から45年の『エボニー協奏曲』までは、ストラビンスキーの新古典主義の様式によって作曲されている。これらの一連の作品では、ペルゴレージやバッハ、ハイドンやベートーベンの古典主義の音楽がモデルにされた。また『十一楽器のためのラグタイム』(1918)でジャズの語法に注目した彼は、ジャズだけではなく、タンゴ、ワルツなどポピュラー音楽にも接近した。34年にフランス国籍を獲得し、ピアニスト、指揮者としてステージに登場して自作を演奏すると同時に、レコードや自動ピアノのための録音も積極的に行った。
1939年9月、ハーバード大学での講義のために渡米。前の年に最初の妻と母親を失ったストラビンスキーは、以前からの恋人ベラをアメリカに呼び寄せ、アメリカの西海岸で永住することにした。アメリカ時代の彼は、まず自作の改訂版の仕事に力を入れ、多くの作品をさまざまな楽器編成のために編曲した。48年の暮れに若い作曲家、指揮者のR・クラフトと出会い、以後クラフトを助手として『道楽者のなりゆき』(1951)、七重奏曲(1953)などの創作活動を再開すると同時に、自作の指揮者として世界各国のステージに立った。51年のシェーンベルクの死後は十二音技法に興味をもち、『カンティクム・サクルム』(1955)、『説教・説話・祈り』(1961)、『レクイエム・カンティクルズ』(1966)など、十二音技法による宗教音楽を数多く残した。59年(昭和34)4月、77歳で日本を訪れ、NHK交響楽団で自作を指揮したが、晩年は健康がすぐれず、71年4月6日ニューヨークで没した。遺体は、生前の彼が愛し、『カンティクム・サクルム』を献呈したベネチアに埋葬された。
[船山 隆]
『塚谷晃弘訳『ストラヴィンスキー自伝』(1981・全音楽譜出版社)』▽『船山隆著『ストラヴィンスキー――二十世紀音楽の鏡像』(1985・音楽之友社)』