19世紀半ばに2度にわたってイギリス東インド会社軍とインドのシク教徒軍団の間で戦われた戦争。インド北西部に統一的かつ軍事力を装備した一大シク王国を築いたランジート・シングの死(1839)の後,王国内に激しい後継者争いが生じたが,18世紀末に南インドを,1818年にはマラータ王国を吸収したイギリスが43年にシンド地方を併合したことがシク教徒たちに脅威を与え,ここに第1次シク戦争(1845-46)が勃発する。この戦いでシク教徒側は敗れ,その結果500万ルピーの賠償金とともにジャンムー・カシミールを失い,パンジャーブの中心都市ラホールにはイギリスの駐在官が入った。イギリスはこれにとどまらず,一方的な改革を強行してシク教徒を刺激し,第2次シク戦争(1848-49)となる。しかしシク王国内の不統一がイギリス側のつけいるところとなり,シク軍主力が49年2月にグジャラートで決定的な打撃をこうむり,戦争は敗北に終わる。総督ダルフージーはただちにシク王国の英領インドへの併合を実施し,幼い王ダリプ・シングは5万ポンドの年金を与えられ,教育のためとしてイギリスへ送られることとなる。シク教徒たちはこれ以後武器の所持を禁じられた。このシク戦争での勝利とパンジャーブ併合によって,イギリスはアフガニスタンの辺境地をも含めてインド亜大陸のほぼ全域をその支配下においた。
→シク教
執筆者:内藤 雅雄
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イギリス東インド会社軍とシクSikh王国との間で2次(1845~46、1848~49)にわたって戦われた戦争。これに勝利したイギリスはインド植民地化の過程を完了した。シク教徒の勢力は、インド北西部のパンジャーブ地方を中心として、ムガル帝国と激しい抗争を繰り返しながら強大になっていった。19世紀の初め、ランジート・シングRanjīt Singh(1780―1839)が出て、シク諸勢力を統合し、強大なシク王国を形成した。しかし彼の死後、シク王国は分裂的様相を示し始めた。フランスをプラッシーの戦い(1757)で破って以降、インド全域にわたって征服を推し進めてきたイギリスは、この機に乗じて二度の戦争をしかけて、シク王国を最終的に滅ぼした。これによって、インドにはイギリスに敵対する勢力がなくなり、イギリスによるインド植民地化の大枠が完成した。
[小谷汪之]
1845~46年,48~49年の2回にわたって,イギリスとパンジャーブを拠点とするシク王国との間で戦われた戦争。39年,建国の英雄ランジト・シングが死ぬと,シク王国では深刻な後継者争いが表面化した。イギリスはシク王国を挑発し,戦争を仕掛けるように仕向けた。シク軍はヨーロッパ式の歩兵隊と砲兵隊を持つなど強力だったが,指導者を欠いていた。戦争はイギリスの勝利に終わり,シク側は屈辱的な講和条件をのまされた(第1次シク戦争)。48年,イギリスに不満を持つシク教徒が反乱を起こし,再び戦争が始まったが,この戦いにもイギリスが勝利した(第2次シク戦争)。この結果パンジャーブはイギリス領インドに併合され,イギリスはインド全域の支配権を確立した。シク戦争はイギリスがインドで行った最後の征服戦争である。
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